可成寺
住所 | 岐阜県可児市兼山596 |
電話 | +81 574-59-2527 |
サイト | www.city.kani.lg.jp/4231.htm |
カテゴリー | 仏教寺院, 観光名所 |
評価 | 3.9 10 件の口コミ |
Kajoji | |
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可成寺 件の口コミ
10 美濃金山ふもとにあります。織田信長に名前の由来は森可成に因んで「可成寺」と言うみたいです。森可成、森三兄弟らの森家の墓所がお寺の奥の少し登った所にあります。
駐車場は山側にあるお寺と反対の道向かいにありました。
バイク二人旅。
森蘭丸の父、三左衛門可成の菩提寺ですかネ。
私自身が討死された滋賀出身なので、何とも言えない気持ちで訪れました。
お墓は、お寺の山側にある旧名鉄八百津線廃線跡を横切った先にあります。
38みねちゃん (ようつべ動画) 。
織田家宿老のひとり森三左衛門可成の菩提寺です。
可成の次男、鬼武蔵こと長可 (ながよし) 創建とのことです。
お寺の上には町おこしで目にする蘭丸の墓碑もあり、森一族の菩提を弔われてました。
伺った日、お寺を抜け新しいコンクリートの擁壁が厳重なお墓のゲートでご住職にお会いし、気さくに開けてくださり参拝させていただきました。
森一族の墓碑群はゲートから2〜30m登ったところにあり、無数の古い墓標の脇を抜けた先の、白壁に囲まれた廟所のなかに在ります。
急斜面で上の山は何度も崖崩れがあったのか、堅固な砂防堰堤が設置されており、その堰のうえからは山の冷気が降りてきて廟所をより厳粛な雰囲気にしてくれます。
参拝を済ませてお寺に下りると、ご住職と奥様に迎えられ、この可成寺のことや街のこと、歴史的なことや近くの観光地まで案内いただきました。
奥様はお寺の中まで上がっていってと、怪しい風体のいちバイカーを快く迎えて頂けたのはとても嬉しかったです。
由緒ある寺院でも、現代に根付いた人とひととの結びつきを強く感じた参拝となりました。
織田家の客将、森三左衛門こと、可成の菩提寺です。
山岡荘八の「織田信長」では「三左」の呼ばれ方でよく登場し、横山光輝の漫画では、信清を犬山城で追い詰めたり、坂本で討ち死にしたりと、よく記憶に残っていたので伺いました。
奥様にお相手をして戴いたのですが、話がお好きのようで、色々とお話しして戴きました。
お寺自体はさながら、船着き場の守りを固めるような出城感覚で、石垣で囲まれた枡形風の入り口になっていました。
川からの侵入を防ぐためか、通りには同じようにお寺が配置されていまして、それぞれが石垣で囲まれており、金山城に行かれて、時間があれば是非。
裏手にある美濃金山城主で織田信長に仕えた戦国武将、森可成に因んで「可成寺」と言うみたいです。
臨済宗妙心寺派の寺院で、可成だけではなく森氏一族に纏わる遺構が多数残っています。
残念ながら可成が討ち死にしてしまった後も森氏は豊臣、徳川に支えて江戸時代には藩としての子孫が存在したようで、先祖ゆかりの当寺を整備した事によって、森氏の歴代墓地や戦国期の寺宝が残されているようです。
可成寺(かじょうじ)は、岐阜県可児市兼山にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は大龍山、本尊は釈迦如来である。森氏の菩提寺として知られる。美濃金山城主で森氏当主の森可成が宇佐山城の戦いで死去したため、嫡子の森長可が菩提寺として栄巌を開山に招いて美濃金山城の東にある寺が峰に創建した。長可が天正12年(1584年)に小牧・長久手の戦いで戦死するとその墓が寺内に建立されている。森氏が慶長5年(1600年)に信濃国川中島(現在の長野県長野市)へ移封された際に現在地に移転した。江戸時代には大名であった森氏により堂宇が整備されるなど保護されている。昭和42年(1967年)に岐阜県八百津町に所在していた森成利、森長隆及び森長氏の墓が境内に移されている。
森蘭丸を輩出した森家の墓所がお寺の奥の少し登った所にあります。
地元の方に聞いたところ、土砂崩れがあったので廃線になった線路の場所にコンクリの壁を作り、そのさいに墓地は、その上の方へ移されたらしいです。
森蘭丸のお墓よりも廃線跡に興奮したのはナイショです。
決して豪壮なお寺ではありませんが、なんとなく好きで三度目のお参りをさせて頂きました。
今回は自動音声案内を聞かず、ゆっくり裏の墓地を散歩させて頂きました。
境内のウメの木が咲いていました
森可成ほか森一族の廟所のあるお寺です。織田信長の小姓として有名な森蘭丸の墓もこちらにあります。場所は本堂の裏手、裏山を少し登ったところにある木々に覆われた昔の墓地の隣に一族の廟所があります。