桔梗塚
住所 | 岐阜県山県市中洞1020 |
カテゴリー | 史跡 |
評価 | 3.9 7 件の口コミ |
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桔梗塚 件の口コミ
7 明智光秀の出生時の産湯の井戸と、お墓、白山神社入り口が同じところにあります。
お墓は昔から大切にされてたんだと分かる、
本当に素敵な趣深い御墓でした。
光秀公は、山崎の戦いで影武者(影武者・荒木行信)が落ち武者狩りでなくなりましたが、光秀公は生き延びこちらに戻り、影武者に感謝し名前を受け継ぎ荒深小五郎と名乗り、この地で暮らしたそうです。
その後、慶長5年(1600年)、関ケ原の合戦に参戦しようとした道中、増水した藪川(根尾川)で馬共に流されて亡くなったとされています。(落馬でなくなったとは、、、ここでは、天海になたと伝えられていてほしい!)
「桔梗塚」は、現在まで地元の荒深氏一族によって大切に守り続けられ、年に2回(4月第2日曜日、12月第1日曜日)供養祭が行われているそうです。
同じ敷地奥に白山神社があり、入り口では光秀公の絵馬が売っています。光秀公は、学問の神様としてもまつられているようです。
大河ドラマで一時脚光を浴びましたが今はひっそりとしていました。駐車場がよくわかりませんでした。国道の乗り越し手前のコンテナが置いてあるところのようで、戦国武将たちのパーキングになってました。(コンテナに武将の名前が書いてありました。)
ブームが去った今でも訪れる人がいるようです。この墓所は、明智光秀が生きていたという伝説に基づいています。その真偽は判断できませんが、地元の方々は、それを信じて大切にされています。伝説を残すだけ、明智光秀は偉大な人だったということは、よくわかりました。
本能寺の変後の山崎の合戦後で、明智光秀が生き延びたとされるスポットです。
教科書通りの歴史であればありえないのですが、歴史は勝者 (豊臣秀吉) によって描かれた時代でもあるので、一つの正史の歴史かもしれないかもという目線で見ると、また面白さがあります。
山崎の合戦後、落ち延びてこの地に辿り着いた光秀は、荒深小五郎と名を変えて関ヶ原の戦いの折には、高齢となっていたのにも関わらず、かつて山崎の合戦の折に敵方だった豊臣勢 (石田三成) に戦いを挑む為、東軍 (徳川家康) の加勢をしようとしましたが、道中の根尾川で溺死した…と
リアリティある文面で、本当の歴史は何なのか?と、色々と考えさせられます。
大河ドラマ、『麒麟がくる』で話題にもなった同地ですが、2022年11月では手入れも滞ってる様子で何処か廃虚感もあります。
自身は特にこういった場所に恐怖はありませんが、最近の歴女など女性1人では怖さを感じるかもしれませんので、女性の場合は複数人での訪問をお勧めします。
が、戦国時代や中世の歴史、また明智光秀に関心がある方は、立ち寄られて良いと思います。
もし文面が真実ならば光秀本人の余生と最期は、無念極まりなかったであろうと、墓石の前で手を合わせました。
平日の昼間に訪れましたが他に訪れる方はなく、閑散としてました。
夏場に訪れるならば、虫除けスプレーなどは必須かと思います。