大谷吉継陣跡
住所 | 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原 山中32 |
時間 | 00:00-24:00 |
カテゴリー | 史跡, 記念碑, 観光名所 |
評価 | 4.8 12 件の口コミ |
Site of the Battle Camp of Ōtani Yoshitsugu | |
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大谷吉継陣跡 件の口コミ
12西軍武将、大谷刑部。西軍大将石田治部三成に殉じた義理厚い武将の陣を敷いたところです裏切り武将小早川秀秋に備えていましたが、その他の脇坂や赤座・小川等の裏切りにもあい、親子共々全滅してしまいました。近くにお墓もありました小早川秀秋一万五千人対三千善戦しましたが力尽きました少し寂しい所ですが行ってみる価値あり
大谷吉継の人気からか、墓にはきれいな花が供えられていました。この墓が藤堂家によってつくられたこと、隣に家臣の湯浅五介の墓もあること、そのエピソードに涙が出ます。殺伐としたあの時代に、人を想う心が今にも伝えられていると思うとホッとします。大谷吉継が今なお人気があるのも頷けます。
反対しながらも、三成の為に参戦し、小早川の裏切りを予感して、この地に陣を構えたと言われています。
圧倒的に兵士の数が違うにも関わらず、あれだけ小早川を押し返したのは、三成に対する思いの深さの違いだと思います。
今では感染しないと分かっているハンセン病ですが、当時はうつると言われていましたが、三成が茶会で庇った事から、一生をかけて友情を貫いた吉続を思うと、胸が熱くなります。
是非とも訪れていただきたい場所です
すぐ近くに大谷吉続のお墓もあるので、そちらも行ってほしいです
地味ですねぇ。
関ヶ原の合戦で、小早川の軍をどのように見張ったかがよくわかります。吉継さんのお墓も近くにあります。
ボランティアの方が、墓の前の石段の雪かきをされていました。墓石が古いのに苔生していないので、不思議に思って尋ねてみたら、県の方が維持に気をかけておられるようだ、ということでした。
県もボランティアも皆さんで大切にされています。
松尾山からの攻撃を一手に引き受け、壮絶な自死を遂げた場所。病で目は見えなかったといいますが、松尾山から押し寄せる蹄音や喊声を聞いてどんな心境だったのか、眺望地で時間を忘れて思いを馳せられるところです。
若宮八幡宮内松尾山の中腹に陣跡があり、山頂付近に墓があります。
松尾山には
松尾山眺望地
大谷吉継陣跡
大谷吉継継顕彰碑
大谷吉高、湯浅五郎の墓
があります。
40分程山登りをしてくたくたになりました。
ダム越えで「平塚為広の碑」にも行けるんですが今回はやめました。
小早川の動向に対処すべく大谷刑部が陣を構えた場所になります。金吾の攻撃は跳ね返せましたが他、四将の寝返りには勝てず戦線は崩壊する事に…。
山路を少し歩けばそれほど苦もなくこの場所に到着出来ます。
出来れば…こちらに来られた方はもう少しだけ頑張れば奥に有る大谷刑部の墓とその自害を介錯したという湯浅五助の墓に到着出来ます。
西軍派だけでなく歴史好きなら訪れる価値は有る場所だと思います…太閤曰く「百万の兵を任せてみたい」と言わしめた男の墓ですから…。
裏切る可能性大の小早川秀秋陣を背中に見ながら東軍を迎え撃つ心境は想像に絶するものだったに違いない。
お墓にはきれいなお花がお供えされており、地元の方に愛されているんだなと感じました。
説明文を読むと、小早川の裏切りを予感しながらの陣の配置との事。
確かに、正面に良く見えます。
小早川の裏切り?の攻撃を三度押し返した力は、予見しながらも、戦いに入らざる逐えなかった中心人物としての、強い想いでしょうか?
体調も悪く、指示しか出せない葛藤はいかなるものか・・。
と想いながら、小早川の陣
に向かいます。
吉継公が介錯を務めた湯浅五助さんと共に祀られています。
山道をしばらく歩きますので、足元はしっかりした方が良さそうです。
道表示に従うと、その他吉継公の陣蹟と因縁の松尾山が見えるポイントもあります。
かなり歩きますし足元も悪いので履き慣れた靴で行きましょう。大谷吉継公と最後まで残った腹心の湯浅五助殿のお墓はいつ訪れても地元の方の手によって綺麗にされており、嬉しくなります。雪の時期はやめましょう。