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島津義弘陣跡

住所 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1961-4
時間 00:00-24:00
サイト www.town.sekigahara.gifu.jp
カテゴリー 史跡, 観光名所
評価 4.3 16 件の口コミ
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島津義弘陣跡 件の口コミ

16
並び替え: 日付 最高評価 最低評価 最も参考になった
M Hara
06 十一月 2022 16:57

比較的少数の部隊といっても当日は3000位本国からの課税で増加、西軍崩壊後300に減り(1000説あり)単独で東軍を突破して本国に帰り着いた薩摩藩島津義弘の陣跡
現在では色々諸説ありますが先ず島津氏の場合、豊臣秀吉の九州平定で九州制覇近かったのに服属させられ恩義に乏しく
その際に石田三成が取成しをしたことは確か
あくまで当主は島津義久で弟の島津義弘は現場の指揮官
朝鮮出兵の恩賞に徳川家康の多数派工作で薩摩領内の蔵入地が与えられた(これは小説の話?)特に徳川と悪くない(疎遠だった)
公式の藩資料には伏見城の籠城に加わろうとして拒絶されたので止む無く西軍にとなってるのは後からの創作と言われますが
島津義弘側はある程度西軍に積極的に関与しようとしますが本国の方は様々な内乱が収まったばかりなのと隣国に加藤清正が在国中で内乱の背後に居たりとても大軍を送るわけにもいかず
地方の豊臣政権の中枢でなかった大部分の大名がそうであった様に現場は西軍本国は東軍というように様子見をした部分が有りそうです、といっても隣国の小西行長勢には加勢、加藤清正勢と交戦
結局単独突破で徳川方有力武将井伊直政等負傷させ70日奈良の寺院で休んでから人質を取り戻し海路薩摩に戻れたのは300人中80人だったとか。 その後交渉の末本国には兵力が残っていたのと島津義弘側の単独行動で本国の島津義久側は預かり知らぬこととし本領安堵され島津義弘本人も特に御咎めなしでしたが

陣跡は特に木が茂ってるぐらいで余り防御上有利というわけでもなく下って行くしかない感じでした。

たなかみふみたか
18 八月 2022 20:43

関が原合戦の最後を飾る「島津の退き口」がここから始まったと思えば感慨深かったです。徳川家康最後陣地までそれほど離れてはいませんでしたが、東軍が勝ち確で油断していたかもしれない、とはいえ敵中強行突破で駆け抜けるのはやっぱり島津は恐ろしいわと思うのです(幕末までずっとこの調子ですね)。

朴日洙
22 一月 2022 1:04

西軍、島津義弘の陣跡地。

薩摩の雄。

この時代から薩摩藩、島津家は強かったのですね。

少し調べると、島津義弘が名将だったというのがすごくわかります

女王様
30 十一月 2021 2:56

今は道も整備され、車でもすぐに分かりますが、以前は木が繁って、分かりにくかったです。
1時間ウォーキングでよく行きますが、あまり訪れる人はいないようです。
もっと行こうよ
三成に恩義を感じて参戦してくれた武将ですよ
敵陣真ん中突破のうとう坂は、町民プールの横を通っていて、夏はよく場所を聞かれますが、「この道ですよ」と教えると、あまりに普通の道で、写真を撮るポイントもなく、意外な顔をされます

河井和規
05 十月 2021 2:11

石田三成陣と小西・宇喜多陣に囲まれた神明神社の裏にひっそりと碑があります。少し離れた所には鹿児島の島津義弘を慕う人達が整備した巨大な石碑が立ち、いかに魅力ある人物なのか肌で感じる事ができます。
その証拠に毎年、鹿児島の学生が退き口を踏破するのが行事として行われているようです。
陣跡から神社境内からは異様なオーラがあり、ここから島津勢が突如、突進してきた事を想像すると、徳川方はさそがし恐慌に陥ったのだろうと思います。それを立て直し、追撃に移れたのはさすが歴戦の徳川勢というべきでしょう。
周りにある陣跡と比べると、小さく見つけづらい場所にありますが、そのどれよりも強い意志の力を感じるスポットとなっています。
集落内の細い小道を通るので、車では入りにくく、自転車か徒歩が良いでしょう。
その集落の方の生活の場でもありますので、すれ違った方に挨拶をし、静かに見せて頂き、来た時より綺麗にして帰るくらいの気構えで訪れるのが、礼儀かと思います。

赤い彗星
22 七月 2021 14:32

島津家を躍進させた義弘は、人情味溢れる性格だったといわれています。
主従分け隔てなく下級の兵士と囲炉裏を囲み、自らの家族だけでなく、家臣に子どもが産まれると、自らの館に招き入れ祝福したといわれています。敵方にも情け深く、朝鮮出兵の際に討ち取った相手を供養したそうです。
周囲の反対を押し切り、関ケ原合戦に西軍として参加したのも、三成に対する恩義によるものです。
義弘の人情深い性格が、数々の窮地に陥った島津家を救ったに違いありません。
「笹尾山・石田三成陣跡」より、南に約800m下った辺りが、「島津義弘陣跡」だといわれています。現在は神明神社の森が広がっており、この神社の裏側には「小池・島津義弘陣所跡碑」があります。
ここは合戦時、西軍布陣地のほぼ中央部に位置します。
島津隊といえば、鉄砲を巧妙に使って戦ったことで有名です。
陣中では壕も掘らず、柵も作らず、鉄砲隊は交互に入れ替わり狙撃し、騎馬隊を撃ち落としていたそうです。
また、敵中突破の戦場離脱の話も有名ですが、それだけでなく、わずか800名程度ともいわれる少数部隊で、西軍を中央から援護していたという事実を踏まえて史跡を巡ると、陣跡の景色もまた違って見えてくるのではないでしょうか。
西軍の敗北が決まったとき、家康の直前を突破し、伊勢街道方面に撤退する。
「烏頭坂」にたどりついたとき手勢はわずか200名だったという。

GionDaiko
19 六月 2021 21:48

関ヶ原合戦において島津義弘が布陣した場所です。
小池村の神社がある高台のこの場所で戦い、西軍敗北時には、ここから徳川本陣へ突き進み、後に「島津の退き口」と呼ばれる退却戦を行っています。

こちらには陣跡を示す石碑の他に、鹿児島県日置市の学生が島津撤退の道を辿る「関ヶ原戦跡踏破隊」の石碑もあります。

森上智央
26 三月 2021 4:29

島津奔るを読んでから義弘贔屓である。

関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。
その結果、この時点で300人まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。
この時、義弘は正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意する。
島津軍は先陣を豊久、右備を山田有栄、本陣を義弘という陣立で突撃を開始した。
その際、旗指物、合印などを捨てて決死の覚悟を決意した。

おだたかし
30 十二月 2020 6:36

島津 義弘(しまづ よしひろ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての薩摩国の武将、大名。戦国大名の島津義久の弟で、島津氏の第17代当主。島津氏18代当主・島津忠恒(のち家久に改名)の父。後に剃髪して惟新斎と号したため、惟新公(いしんこう)との敬称でも呼ばれた。武勇の誉れ高く「鬼島津」の異名で知られ、戦国(安土桃山)時代でも屈指の猛将として当時から有名であった。

9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦いでは、参陣こそしたものの、戦場で兵を動かそうとはしなかった。関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。その結果、この時点で300人まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、豊久の説得を受けて翻意し、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を島津軍は先陣を豊久、本陣を義弘という陣立で決死の覚悟で突撃を開始した。

このとき島津軍は捨て奸と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。後に「小返しの五本鑓」と称される者たちの奮戦もあり、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功した。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。また、その一方で川上忠兄を家康の陣に、伊勢貞成を長束正家の陣に派遣し撤退の挨拶を行わせている。この退却戦は「島津の退き口」と呼ばれ全国に名を轟かせた。

志葉
30 十二月 2020 5:21

年に一度は関ヶ原を訪れている、しがない歴史好きです。陣跡はどこも、いつでも綺麗に手入れされています。開戦地に駐車場があるので、そこに車を停めて付近を散歩することができますよ。島津義弘の陣から小西行長、宇喜多秀家…、と順番に陣跡を散歩するのが私の年一の楽しみです。

辻田正徳
14 十二月 2020 15:01

他の陣跡と然程変わり無い印象。 申し訳ないが、口コミされてる方のレビューの方が、陣跡の解説より解りやすく、熱さが伝わってくる。 ですので、戦国ファンの期待にもう少し応えてあげられる、サービス趣向が有ればなと思った。ま、個人的なエゴですみませんが…これからに期待。

ヤマ田太郎
07 三月 2020 3:11

島津さん、いけません、これはいけません。せっかく三成が日本史上最大の戦いにおいて手柄をあげ放題の最高の場所をくれたのに何もしないんて!
 ここは手持ちの高度計で測ると家康の本陣より7メートルは高く見通しがきき、隣の友軍の宇喜多勢の場所より乾燥していて足場がいい。しかも三成憎しの東軍が群れ集まってくる地点で、実際に前進してきた家康の本陣とは、たった400メートルしか離れておらず大将首も狙える位置でした。義弘が「手柄をあげ、名を残すことこそが武士の本分」、と割り切っていれば歴史は変わったのかも。

廣澤貴志
05 三月 2020 9:09

島津関ヶ原中央突破の陣跡だけあって鹿児島からの顕彰が沢山ありましたここから南宮山方面への突破が激戦なのも分かります、但し通説と違い島津の役割は石田隊と小西, 宇喜多隊の間隙を埋める事だったのではないのかと感じました。

伊藤善久
29 八月 2019 19:11

島津義弘と言えば、
関ケ原の合戦終盤で劇的なドラマを作った武将。
いわゆる敵中突破である。
そんな武将が陣を構えた場所に自分が立てるのは、
妙な興奮があった。

神明神社前に島津陣跡駐車場と書かれた看板が立っているから、
車の人はそこを利用させてもらうといいだろう。

Yuta
11 八月 2018 3:31

石田三成が陣を置いた笹尾山から南に歩くと,島津義弘の陣跡に着きます。この場所の西側には北陸に通じる北国街道が走っていたようで,義弘は北国街道方面の守備を担っていたようです。

 不本意ながらも西軍に付いた島津勢は,小早川隊の攻撃が引き金となって西軍が壊走し始める中,押し寄せてくる東軍に正面から突撃して,関ヶ原東南の伊勢街道経由で離脱したそうです。NHK大河ドラマ「葵徳川三代」では,麿赤兒さん演じる島津義弘を逃すため,山口祐一郎さん演じる島津豊久が捨て奸戦法で討ち死にを遂げる様が描かれています。

 義弘が帰還した後の島津家では,義弘の兄である義久が,徳川家康に謝罪の使者を送りながらも,国境線の防備を固めるという武備恭順の途を選びます。
 家康は,九州の大名に島津征伐を命じたようですが,北九州一円を平らげた黒田如水が島津征伐を行うと名乗り出ながら,九州を制圧して東上してくるおそれがあったことや,島津氏の手により日本に来航する明船が撃沈されていたことから,島津氏の征伐をあきらめ,島津氏の領地を安堵します。
 島津氏の本領安堵は,義久の巧みな外交工作もさることながら,関ヶ原で向こう見ずともいえる敵中突破を行った義弘の武名が大いに影響したのではないかと思います。

 島津義弘の陣跡から南に進むと,同じく西軍の小西行長の陣跡に着き,そこから更に南西に進むと,天満山の宇喜多秀家の陣跡に着きます。関ヶ原西南の松尾山に布陣した小早川隊,東南の南宮山に布陣した毛利隊と一緒に,平地に布陣する東軍諸隊を囲む形で布陣していたようです。
 西軍が山間に布陣し,東軍が平地に布陣したからのなのか,西軍諸将の陣跡はひっそりと静まりかえった林や山の中にあり,東軍諸将の陣跡の周りには民家や小学校が建っていることが多かったです。

2号 サンダーバード
10 八月 2017 21:00

「鬼島津の敵中突破」で、天下に名を轟かせた島津維新! 僅か三百 (この数ホントかな…?) の寡兵で良くやった (°∀°) //ィェィとされているが。
トンズラ姿を誉められてもなぁ~武門の名折れだし…何か気の毒ですらある。

そもそも関ヶ原前、伏見城に鳥居元忠と共に、城を枕に討死! だったはずが運命の綾で、西軍参加に。
三成陣の (攻勢防御策の為かな?) 脇備として此処に布陣した。コレではプライドが、傷付くよね。何か二軍落ち感、あり。

西軍が攻勢に転じた時に、敵裏を切り裂いていく策だったのかなぁ? 出張る時期、良く分からないまま、檜舞台を与えられず、敗退濃厚となる…。益々プライドが許さない!

「薩摩隼人ん戦、披露いたそ! 」この戦場で義弘、豊久に五千程の島津精鋭軍を与えたなら、戦況違っていた! と想えるだけに、残念無念さが石碑に滲むぞ。お家の事情もあったしねェ。中々辛いよね。

「豊久どん! 突撃でごわす! 」ドドッ―
東軍を真一文字に斬り裂いて往く、疾風怒濤の陣あり。丸に十文字、鬼島津の兵ぞっ!

だけれども、西軍に加担したかどうかは可成り? 疑? 問? だなぁ。どうなんだろね?

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