JAPANRW.COM

泣塔

住所 神奈川県鎌倉市寺分11
電話 +81 467-61-3857
時間 00:00-24:00
サイト www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/nakitou.html
カテゴリー 史跡, 観光名所
評価 3.6 7 件の口コミ
Nakito
最寄りの枝
高野の切通し — 神奈川県鎌倉市大船2033
史跡法華堂跡(源頼朝墓) — 神奈川県鎌倉市西御門2丁目5
東勝寺跡 — 神奈川県鎌倉市小町3丁目10−1
永福寺跡 — 神奈川県鎌倉市二階堂209
近くの同様の会社
仮粧坂切通 — 神奈川県鎌倉市扇ガ谷4丁目14−7
江の島弁財天道標 — 神奈川県藤沢市片瀬2丁目18−32 片瀬浪合市民の家
日野俊基卿墓 — 神奈川県鎌倉市梶原5丁目9
日蓮上人辻説法跡 — 神奈川県鎌倉市小町2丁目22−13-7

泣塔 件の口コミ

7
並び替え: 日付 最高評価 最低評価 最も参考になった
saku
07 十二月 2021 15:08

深沢スポーツ広場に入り、駐車場の奥、右手にあります。土砂崩れの恐れがあり、フェンスで囲まれていました。
近くで見たかったです。

富田浩喜
27 八月 2020 15:43

現在はスポーツ広場となっているJR大船工場の跡地に建つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)の通称です。1356年(文和5年)の建立とされています。
現在は鎌倉市が管理しておりフェンスで囲われているものの、フェンスの外側から拝見することができます。

Panda
18 六月 2020 1:26

今はもう管理者が変わってるのかも知れませんが、ぐるりとフェンスで囲まれ供養塔のため普段は施錠してあり、当時は拝観希望者は管理事務所に電話することになっていました。周囲と一括開発しようとすると色々障りがあったらしく、この地だけそのままに残しているとのことでした。許可をいただいて鍵を開けて中をみせていただけました。蜂の巣があるので気をつけて下さいと教えて下さいました。小高い丘のようになっていますが、私がお詣りに行った当時はジャングル状態で、少し登るとタイトルの大きな塔(泣き塔)があり、その向かい側は小さなやぐら?みたいになっていて、古い五輪の塔が大小いくつもありました。鎌倉陥落の際、北条16代執権赤橋守時が不眠不休で新田方と斬り合った激戦地です。彼は妹が足利尊氏に嫁いでおり、いわば謀叛人の身内になってしまった後ろめたさ?と腹立ちか、大変責任感を感じ決死の覚悟で鎌倉を守るべく激戦を繰り広げましたが、時に利あらず自刃した地ともいいわれています。戦いは武士の誉ですが、北条一族の中でも少し気の毒な背景です。手を合わせさせていただいてきました。

ゴジラヒロ
27 十月 2019 6:20

うちの母が泣塔クラブに入っており、僕は草刈り、ごみ拾いを手伝っているんですが、ある日誰も出入り口の鍵をかけていないのに、鍵が閉まっていたことがあります。さらに、自分が泣塔に行かなかったとき、母とそのクラブの方々が泣塔で話し合いをしていてその時に撮った写真に, テーブルに誰でもない髪が写ったこともありました。

Chelsea
12 六月 2019 1:01

およそ2メートル、安山岩製。1356年の銘があり、鎌倉公方基氏の時代。基氏の母は尊氏の正室で、洲崎合戦でこの付近(不明)で自刃した赤橋(北条)守時の妹。背後のやぐらには小型の凝灰岩の五輪塔が数基。またこの周辺地域からも多くの五輪塔が出土しており、これらは鎌倉期のものである可能性もあり南北朝期の洲崎合戦の戦死者のためのものであるかは不明だが、柏尾川越しに富士を望む市境のこの地一帯が宗教的な地であったことは確かである。(多目的広場に入って右奥。フェンスで囲まれて近づけないが崖の縁に立っているのを見ることができる。月一度有志『泣塔クラブ』による清掃活動あり、一般参加可能)

manabu
23 四月 2019 2:05

柵があり、近くで見学できないのが残念です。

白髪ハウル
27 十二月 2018 8:45

鎌倉市有形文化財に指定されています。
正式名(登録名)「石造 宝篋印塔(文和五年銘)」
その名の通り文和五年(1356)と彫られており、この近く、洲崎での戦において亡くなった者たちを供養する為に建てられたとされています。

が、ちゃんとした文献が残っている訳では無いそうで、実は詳細不明です。

泣塔の所以は、昔この地から青蓮寺に塔が移された事が有り、その時に「元の場所に戻りたいと塔が啜り泣いた」との言い伝えからです。
真偽の程はともかく、洲崎合戦の供養塔であれば此処に居たいと思うのも分かる気がします(笑)

また、それからと言うもの、この地が旧日本軍の工場になった際も国鉄の車両基地になった際も塔を移動させようとすると祟りがあったそうです。

現在ではJRから鎌倉市に所有者が変わっていますが、泣塔はそのままです。
近くに東海道線の駅が出来、商業施設の誘致がなされるとの噂がありますが、実現したとしても将門の首塚の様に、この一画は残されるのでしょうね。

レビューを追加