泣塔
住所 | 神奈川県鎌倉市寺分11 |
電話 | +81 467-61-3857 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/nakitou.html |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 3.6 7 件の口コミ |
Nakito | |
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泣塔 件の口コミ
7 現在はスポーツ広場となっているJR大船工場の跡地に建つ宝篋印塔(ほうきょういんとう)の通称です。1356年(文和5年)の建立とされています。
現在は鎌倉市が管理しておりフェンスで囲われているものの、フェンスの外側から拝見することができます。
今はもう管理者が変わってるのかも知れませんが、ぐるりとフェンスで囲まれ供養塔のため普段は施錠してあり、当時は拝観希望者は管理事務所に電話することになっていました。周囲と一括開発しようとすると色々障りがあったらしく、この地だけそのままに残しているとのことでした。許可をいただいて鍵を開けて中をみせていただけました。蜂の巣があるので気をつけて下さいと教えて下さいました。小高い丘のようになっていますが、私がお詣りに行った当時はジャングル状態で、少し登るとタイトルの大きな塔(泣き塔)があり、その向かい側は小さなやぐら?みたいになっていて、古い五輪の塔が大小いくつもありました。鎌倉陥落の際、北条16代執権赤橋守時が不眠不休で新田方と斬り合った激戦地です。彼は妹が足利尊氏に嫁いでおり、いわば謀叛人の身内になってしまった後ろめたさ?と腹立ちか、大変責任感を感じ決死の覚悟で鎌倉を守るべく激戦を繰り広げましたが、時に利あらず自刃した地ともいいわれています。戦いは武士の誉ですが、北条一族の中でも少し気の毒な背景です。手を合わせさせていただいてきました。
うちの母が泣塔クラブに入っており、僕は草刈り、ごみ拾いを手伝っているんですが、ある日誰も出入り口の鍵をかけていないのに、鍵が閉まっていたことがあります。さらに、自分が泣塔に行かなかったとき、母とそのクラブの方々が泣塔で話し合いをしていてその時に撮った写真に, テーブルに誰でもない髪が写ったこともありました。
およそ2メートル、安山岩製。1356年の銘があり、鎌倉公方基氏の時代。基氏の母は尊氏の正室で、洲崎合戦でこの付近(不明)で自刃した赤橋(北条)守時の妹。背後のやぐらには小型の凝灰岩の五輪塔が数基。またこの周辺地域からも多くの五輪塔が出土しており、これらは鎌倉期のものである可能性もあり南北朝期の洲崎合戦の戦死者のためのものであるかは不明だが、柏尾川越しに富士を望む市境のこの地一帯が宗教的な地であったことは確かである。(多目的広場に入って右奥。フェンスで囲まれて近づけないが崖の縁に立っているのを見ることができる。月一度有志『泣塔クラブ』による清掃活動あり、一般参加可能)
鎌倉市有形文化財に指定されています。
正式名(登録名)「石造 宝篋印塔(文和五年銘)」
その名の通り文和五年(1356)と彫られており、この近く、洲崎での戦において亡くなった者たちを供養する為に建てられたとされています。
が、ちゃんとした文献が残っている訳では無いそうで、実は詳細不明です。
泣塔の所以は、昔この地から青蓮寺に塔が移された事が有り、その時に「元の場所に戻りたいと塔が啜り泣いた」との言い伝えからです。
真偽の程はともかく、洲崎合戦の供養塔であれば此処に居たいと思うのも分かる気がします(笑)
また、それからと言うもの、この地が旧日本軍の工場になった際も国鉄の車両基地になった際も塔を移動させようとすると祟りがあったそうです。
現在ではJRから鎌倉市に所有者が変わっていますが、泣塔はそのままです。
近くに東海道線の駅が出来、商業施設の誘致がなされるとの噂がありますが、実現したとしても将門の首塚の様に、この一画は残されるのでしょうね。