JAPANRW.COM

岩船地蔵堂

住所 神奈川県鎌倉市扇ガ谷3丁目3−21
時間 00:00-24:00
カテゴリー 仏教寺院, 観光名所
評価 4.3 6 件の口コミ
Iwafunejizodo
近くの同様の会社
長谷寺 — 神奈川県鎌倉市長谷3丁目11−2
妙本寺 — 神奈川県鎌倉市大町1丁目15−1
鎌倉大仏殿高徳院 — 神奈川県鎌倉市長谷4丁目2−28
龍口山 東漸寺(日蓮宗)龍口寺輪番八ヶ寺 — 神奈川県鎌倉市腰越2丁目22−13

岩船地蔵堂 件の口コミ

6
並び替え: 日付 最高評価 最低評価 最も参考になった
しむら篤姫
27 八月 2022 13:45

源頼朝の長女、大姫の守り本尊があります。小さな隙間からのぞいてみると、お地蔵様が見えるので、おそらく、これが大姫の守り本尊なのでしょう。ちなみに、この地蔵の体内には船形の石造りの地蔵尊が納められていて、それが岩船地蔵の名前の由来だそうです。
(岩船地蔵堂は頼朝の次女、三幡の墓ともいわれています)

M Hara
29 四月 2022 16:10

JR横須賀線路線沿いから阿仏尼墓所過ぎてガードくぐって左側
海蔵寺管理下ですが何年か前はトタン屋根でボロボロだったとか
木曽義仲の息子で人質だった清水義高の婚約者大姫(源頼朝長女)の持仏を祀った御堂
結局義高は討たれ、討手の藤内光澄も梟首、大姫も早逝と救いの無い話ですが鶴岡八幡宮建長寺鎌倉大仏とまた違う方向でそう遠くないですがやや行きにくいのが何ですが。

kurotamamiyako
20 一月 2021 1:12

源頼朝公、北条政子の長女、大姫を供養するため建てられた地蔵堂と言い伝えられています。源義仲は頼朝と対立した際、和議の為、義仲の子, 源義高を大姫の婿として鎌倉に送った。つまり人質としてであった。1183年、義高11歳、大姫6歳であった。源義仲は入京こそしたが、頼朝との関係は破局し、宇治川の戦い、粟津の戦いで敗死する。人質としての義高は殺されることに。助けようと大姫は屋敷からひっそりと逃すのだが、むなしく、入間河原で討たれてしまう。悲しむ大姫。齢7歳。その後、政略のため、入内させようとしたが、そんなことをするぐらいなら身を投げるともいい、さすがの頼朝公もあきらめざる得なかった様子。病を得て1198年8月28日に20歳でなくなったという。様々な暗殺、抗争の渦巻く時代。こんな純愛の物語があったのですね。幼心に大姫は、義高にひかれるものがあったのでしょう。ちなみに2人の墓(碑)は大船の常楽寺の裏山にひっそりと建っています。

atsu
10 一月 2021 13:56

北鎌倉の建長寺から亀ヶ谷坂切り通しを抜けて海蔵寺へ向かうとJRのガード下をくぐりますが、その手前のT字路に変わった形の建造物があります。その建物、実は地蔵堂です。

源頼朝の娘の供養堂で、娘が木曽義仲の子供義高に恋したものの父頼朝に討たれ、深い悲しみから娘も20歳でこの世を去ったと言われています。そんな供養堂ですが、これは帰宅してから知った情報。散策中に知ってるとまた違った見方やじっくり観てたのかもですが、鎌倉散策では気になったもの後から調べて知る情報もあるあるです。

でも存在感はかなりありました。

今野豊美
01 三月 2019 2:21

岩舟地蔵堂
 ーー大姫の遺体が葬られたとされるが、
大姫は、勝長寿院のなかに葬られ、
乙姫が、ここに葬られたかも知れない。ーー
推測
「 頼朝・政子の長女 (大姫) と 次女 (乙姫) について。」
源平合戦の真っ最中の寿永二年 (1183) 三月、頼朝と木曽義仲との間で対立が生じた。結局は和睦が成立したが、それには条件があった。
義仲の子 清水義高が大姫の婚約者という名目で、事実上頼朝の人質となり、義高は鎌倉の到着した。
そして翌年正月、父義仲は近江国粟津で戦死した。
頼朝が差し遣わした源範頼・義経の両将に打ち取られたのである。
清水義高は、同年四月、鎌倉脱出を図ったが、武蔵国入間河原で追手によつて、わずか十二年の生涯を閉じた。
幼な心に義高を将来の夫と信じ込んでいたのに、父頼朝の命で殺されたのである。大姫は、気鬱使症になった。
大姫を慰めるために、頼朝は、後鳥羽天皇と大姫との結婚を考えたのだ。
大姫の入内が実現しそうになったが、しかし、建久八年 (1197) 七月十四日、
当の大姫が、病死したのである。
遺体が葬られたには、亀ヶ谷切通し入口の角の「岩船地蔵堂」であるといる。
(床下には岩石造りで船形光背のある地蔵洞像らしいものあるので、こう呼ばれた。)
しかし、入内を諦めず、次女の乙姫を入内させようと考えた。
乙姫は女御 (中宮の次の位) に任ずるという宣旨が発せられた。
頼朝は乙姫を伴って上洛しようとした。しかし、この矢先、これを仲介していた京都の公卿 一条高能が急急死した。乙姫の入内は、一年後に延期されたようだ。ところが翌年正月十三日、頼朝自身が死去した。
しかし,二代将軍 長男の頼家は、やや強引であった。乙姫の入内運動をなお粘り強く展開した。そして,頼朝死去から二か月ほどたった頃、乙姫は
上洛することになったらしい。ところが、またしても、当の乙姫が病気になってしまった。介護のかいなく、乙姫は没した。
まだ十三歳でしかなかった。
乙姫= (三幡姫) の遺体が、扇ガ谷の「亀ガ谷堂」のかたわらに葬られた。
乙姫の「亀谷堂」こそが、岩船地蔵堂だっかたも知れない。
大姫の墳墓堂は、勝長寿院のなかだったかも知れない。

ken
10 二月 2019 2:44

薬王寺に行く道中にあるおしとやか雰囲気が感じる素敵なお堂
このお堂は源頼朝公の長女であり源義高公の奥さんで悲運の姫だったお姫様を祀ったお堂である
なのでちょっと儚さも感じられるお堂だった

レビューを追加