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今井城跡 / 今井城(今井砦)

住所 神奈川県横浜市保土ケ谷区今井町111
電話 +81 45-520-3320
時間
月曜00:00-24:00
火曜日00:00-24:00
木曜日00:00-24:00
金曜日00:00-24:00
土曜日00:00-24:00
日曜日00:00-24:00
サイト www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/shokai/rekishi/sanpo/imai.html
カテゴリー 史跡
評価 2.9 7 件の口コミ
最寄りの枝
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今井城跡 / 今井城(今井砦) 件の口コミ

7
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馬渕英貴
19 十月 2022 22:11

本丸跡に城山稲荷が祀られ城跡の碑があり、山上の二の丸跡と出城跡が今井の丘公園、とても立派に公園化されています。以前は城山稲荷に上がる道の入口に案内標識があったのですが、今は撤去され、道は藪化、私有地なのでロープで見学範囲も制限され難攻不落になっています。

のなかともみ
08 十一月 2021 12:27

鎌倉時代の武将・木曽(源)義仲の家臣である今井四郎兼平が築いたとされる城です。別名・今井砦。
最初、どこから行くのか分からなくて裏の今井の丘を城跡かと思っていましたが、よく見ると近くの金剛寺に説明文があり、その脇に登城口の案内板があります。そこを登ると小さな祠と石碑があります。土塁などがありますがあまり奥に行き過ぎないほうが良いです(ロープがあったので)。駐車場はありません。

manabu
24 七月 2021 10:09

別名今井砦ともいわれる中世城郭で、伝承では木曾義仲の家臣今井兼平の城とされています。戎光祥出版『神奈川の中世城郭』では、稲荷神社のある部分だけで構成されるごく小規模の城跡とされ、神社のところに「今井城址」の石碑が建てられています。
なお、神社の背後に空堀が残っているとのことですが、立ち入り禁止になっており、見学することは出来ません。

久良岐のよし
06 七月 2021 22:07

伝承によれば今井四郎兼平の守備した城跡と伝わる。
金剛寺の寺伝は江戸時代の城主云々と江戸期の一国一城令や旗本が陣屋しか置かない事に矛盾しているので、金剛寺再興以前の話が混乱したまま一色単に混ぜられているのだろう。
恐らくは金剛寺すら城の一部に有った仏堂が前身かもしれない。
背後の住宅街建設に配慮に忖度したかは不明だが、日本城郭大系は範囲を明らかに故意に矮小化して紹介している。
背後の住宅街と公園、金剛寺、城山稲荷含めて今井城だろう。
曲輪1つに城の名を当て込むのは先人への軽視に当たるし、令和の城ファンも騙せない。

細郷市長が開発を牽制する為に揮毫した今井城跡の石碑が有る城山稲荷からは遺物が発見されている。
南北朝の物である板碑
中世銅貨の古銭
これらの事から恐らくは伝承通り鎌倉時代に平家物語で美化された今井兼平等木曾勢は自害しておらず実際は源頼朝公に帰順したのだろう。
当時の武士の習慣を鑑みても、主君に殉じて切腹したりはしない。
それは儒教が導入されて以降の価値観で武士は強者に従い生を求め一族を繁栄させるのが家長の役割で最重要視された素養だった。
実際に木曾家臣平家家臣の斎藤氏は神奈川区斎藤分町と地名を残し、更に南北朝時代に戸塚区不動坂辺りも当時領主だった斎藤氏が護良親王の奥方と侍女をかくまった伝承が残る。
更に木曾義仲の愛妾巴御前も和田義盛公に再嫁し和田城で生活した事が三浦市横須賀市の郷土史話に伝わる。
鎌倉の北条時政名越邸跡の釈迦堂遺跡にも木曾義高の侍女が幽閉された土牢が残るが、その娘は源頼朝公に仕えていた事が鎌倉の史話に残る。
物語として美談にする為に後世脚色されただけで、木曾家臣団は頼朝公ないし和田義盛公の傘下に編入されていたようだ。
城に話を戻すと、そんな事情から鎌倉時代に築城、遅くとも南北朝時代に築城され室町時代も北条家が狼煙台や八王子街道と古東海道と鎌倉街道下道のバイパスを抑える要害として利用していた事は地勢的に想像に易い。
特に尾根を断ち切る堀切等は南北朝の追加で、鎌倉期は尾根に削平した曲輪を作り山裾を裾切りした程度で土塁も無かっただったろう。

城山稲荷だけが現在は今井城跡とされるが恐らく南端で横矢をかける曲輪の1つに過ぎない。
入口に向かって右手の住宅街に堀切状の道路が有り、そちらが空堀兼大手口で丘の上を含めて一帯が城域だったはず。
残念ながら寺院の墓地建設や周囲の宅地化で、それらしい遺構は、ここ城山稲荷の裏の空堀を除いて現存しない。

Itaru
13 四月 2021 7:21

今井街道の金剛寺バス停から保土ヶ谷駅よりの民家の間の路地から続く段を登っていくと石碑がある。
石碑より先は進めないので頂上に行くには一度、今井街道に戻り回り込む必要があります。

以下、石碑にある碑文

今井城跡は、室町時代初期に築城された典型的な山城で、現在にその遺構を伝えている。
城は標高八十七メートルの尾根上に構築され、南北約三百メートル、東西約二百メートルの規模を示し、中腹には曲輪、南端には空堀をはさんで、守護神と伝承される城山稲荷が鎮座する。
昭和三十年十月八日、この境内から常滑大甕に入った約百貫の古銭が発見されたが、この城が誰によって営まれ、城主が誰であったかを語る資料はないものの、現存する遺構、遺物からして、市内を代表する中世の城であることはいうまでもない。

あしひろ
25 十二月 2020 3:35

こんな街の中によくぞ、僅かながらも遺構を残してくれたもんだ。稲荷神社は馬出しのようなものだったのだろうか。神社の奥には堀切とその周囲には空堀の跡と思われる遺構がある。
神社の側には石碑あり。

石井秀明
05 八月 2020 23:41

入り口が分かりにくいです。近くに住んでますが、初めて行きました。雑草が多い夏場は避けた方が良いかなと思います。
倒れた鳥居がありました。
狭い空間ですが、竹林に囲まれて雰囲気はあります。

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