無縁塚
住所 | Kanagawa, Kawasaki, Ward, Ikeda, 1 Chome−6−1 |
時間 | 00:00-24:00 |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 3 6 件の口コミ |
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無縁塚 件の口コミ
6 昔、東海道沿いであるこのあたり、川崎宿では震災や 大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび 襲われ、多くの人々が命を落としています。
おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、 川崎宿のはずれの松並木の下にまとめて 埋葬したのでしょう。
この場所は無縁塚と 呼ばれ、地元の方々により供養が続けられて います。
不幸にして亡くなった人々の霊を供養する ため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここ に慰霊塔を建てました。
京急本線とJR東日本の南武支線の交換駅である『八丁畷駅』のホーム脇にあるのが、こちらの遺跡で、明治中期以前ばこの辺りは一面田圃だらけで商家があるのは現在の市場町あたりにだけでしたが、古地図を確認すると前述した『八丁畷駅』周辺には並木が街道に沿うようにあったようで、震災や火事や飢饉、倒れた旅人などをその並木の元に埋めたようです。
昔は本当に手入れもされず雑草が生え放題でしたが、現在は川崎市により維持管理されている事もありとても綺麗な状態となっております。
塚と説明板があり、説明板には下のように書かれてます。
東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷(なわて)といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。
こなたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごろの特徴を備えていることが分かりました。
江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としてます。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅(けやき)の並木の下にまとめて埋葬してのではないでしょうか。
不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により供養が続けられています。