住吉神社
住所 | 神奈川県横浜市青葉区奈良町833 |
サイト | www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4 |
カテゴリー | 神社 |
評価 | 4.6 7 件の口コミ |
Sumiyoshi Shrine | |
最寄りの枝 |
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住吉神社 件の口コミ
7 神社の急な階段が好きです。
脇からのスロープでも上がれるので、急な階段が苦手な方も大丈夫です。
交通量の多い場所にあるので、自分は近くのスーパー三和に買い物に行った時に、お散歩して伺いました。ちょうど良い距離でした。
小さいがきれいに整備された神社。階段が非常に急だが、横の迂回路のような狭い道でも上がれるようだった。ふもとには防空壕 (?) や、こどもの国が戦時中に弾薬製造・保管施設に使われていた際に事故で亡くなった6名の中学校生徒の慰霊碑がある。
いつもお参りさせていただいてます。
たまに他の参拝客やお掃除をされている方と会うことも。
急な階段の先に落ち着いた雰囲気の神社があります。
自然が多く落ち着きます。
(転載)
〜六つのみたまに〜
[神奈川県立横浜第二中学校田奈部隊殉難(昭和19年11月30日)]
・慰霊碑碑文
横浜第二中学校生徒の遭難をいたみて
六つのみたま
ここにしづまる
田奈の川花もふりそそげ
雪もみだれよ
国学院大学教授 武田 祐吉
・同裏面
昭和十九年のかの戦のさ中に、田奈部隊への動員の吾が同窓勤労に赴く朝、はからざりきこの川渡りに自動車覆りて、束の間に若き六人の生命を奪ふ。九度めぐり来し想い出悲しきこの日、昔の友がら、今泉正三、漆原光一、辻義雄、戸羽盛良、西谷基一、山口渡を悼みてこの碑を建つ。
昭和二十八年十一月三十日 横浜第二中学校二十八期生一同
・昭和19年5月より横浜二中の4年生は、東京陸軍兵器厰補給厰田奈部隊(陸軍兵器補給『臣』二九六二二田奈部隊が正式名称との説も)(港北区(現・青葉区)奈良町;現・こどもの国)へ勤労動員に行くことになりました。
・最初は全寮制でしたが、その年の9月から、通勤制になり、生徒達は横浜線長津田駅で田奈部隊まで延びる引き込み線で貨車に乗って部隊に通うこととなりました。
昭和19年11月30日、前日の雨と横浜市内の空襲のため、機関車が東神奈川駅から回送されず、この日は陸軍差し回しの3台のトラックにクラスごとに分乗して部隊まで行くことになりました(1組〜3組が先発組となりました)。
・長津田駅から部隊まで、奈良川に沿った道(現県道139号こどもの国通り)をトラックは進みましたが、住吉神社前の橋(現・神前橋)を渡り左折したところ、右側が神社の山の崖、左側が奈良川、道幅が狭く緩い右カーブのところで、対向車(一説には佐官旗のついた黒塗りの乗用車)と出会いました。
・行き違いのためトラックは左に寄せたところ、4年2組の乗った2号車の左後輪が脱輪して川に転落し、生徒達を乗せたままトラックは川の中で180度転覆して止まりました。
・生徒達、部隊、近隣住民達の手で必死の救助活動が行われましたが、生徒6名がクラス全員が見ている前で水の中から遺体で引き揚げられました。
・事故の翌々日、殉難した6名は軍属扱いとなり、田奈部隊で学校・部隊・神奈川県の合同葬が執り行われました(本葬は久保山斎場で執り行われました)。
・遭難後、田奈部隊の手により現場に「県立横浜二中遭難の地」と故人名を記した1本の木製標柱が建てられましたが、経年により朽ちていきました。
・その場所には慰霊碑が建立されることになりました。昭和28年(1953)11月31日、中学28回卒業生が中心となり、現場にて田奈部隊遭難犠牲者の慰霊碑除幕式、つづいて横浜市立田奈小学校にて田奈部隊遭難犠牲者の慰霊祭が開催され、来賓として遺族、横浜翠嵐高校佐田稔校長、島村県会議員など関係者が多数参列しました。
・後にこどもの国通りの整備に伴う道路拡幅により、現場に建てられた慰霊碑は道の反対側に移設されました。
・同期の中学28回卒業生を中心に、その後も命日の11月30日には近隣の中学校などでの慰霊祭や慰霊碑への参拝が毎年続けられました。
・今では、その志を継ぐ後輩達(といっても私から見れば大先輩)によって参拝が毎年続けられています。
・この慰霊碑は青葉区奈良町の、住吉神社前交差点(=奈良川に架かる神前橋)から県道139号を数十メートルこどもの国方向に進んだ、神前橋バス停向かい側の路肩にあります。(KH)#田奈部隊