東峯八幡大神
住所 | 神奈川県横浜市戸塚区吉田町1263 |
電話 | +81 45-251-9502 |
サイト | kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4 |
カテゴリー | 神社 |
評価 | 4.1 7 件の口コミ |
Tonomine Hachiman-daijin | |
最寄りの枝 舞岡八幡宮 — 神奈川県横浜市戸塚区舞岡町946 日枝神社 — 神奈川県横浜市戸塚区前田町216 御霊神社(相模御霊神社) — 神奈川県横浜市泉区中田北3丁目42−1 春日神社 — 神奈川県横浜市港南区日野中央2丁目9−3 |
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東峯八幡大神 件の口コミ
7 2022/10/24、国道1号線 元町信号が有る T字路の角に、八幡大社への石碑が有る。「八幡神社参」と、一部地中に埋もれている。
道なりに歩けば、参道の前に来る。
東峯八幡大神の創建は、当地累代の名主、渡辺三左衛門が永久2年 (平安時代1114年) 中打越に勧請、明和2年 (1765年) 当地へ移転したとされる。江戸期には、当地吉田町の鎮守社となる。昭和41年4月、再築された。
参道の前には多くの石塔が有る。各々を見る。右側から、
記念碑:
「奉納 敷石一百二十枚工費一式 東京市四谷尾張町 伊藤平蔵」
「大正五年十二月建之 吉田町 元町」
(因みに敷石を参道から境内に至るまで数えると、ほぼ120枚で あったー正確な記録だ。)
庚申塔:「安政十年庚申歳吉日 +約11人の寄進者名」
(江戸時代1863年かのえさる)
庚申塔:「元禄十三庚辰歳 +5人の寄進者名」
(江戸時代1700年かのえたつ)
歌碑:「前中納言匡房郷ーーー」
「惟持 享和二年歳次 壬戌 十一月 望者建焉 味岡宣親」
(惟持の意味不明、通常は維時=これとき にすると思うのだが。戸時代1802年みずのえいぬ。匡房=くにふさ は平安時代後期の公卿/儒学者/歌人、官位は正二位・権中納言、小倉百人一首では権中納言匡房。達筆の歌は読めない、表に2句、裏にも句が有る。でも何故ここに?)
庚申塔:「貞享三 丙戌 夭 十月九日 +8名の寄進者名」
(江戸時代1686年ひのえいぬ)
更に参道の中頃には、
庚申塔:「庚申供養塔 +寄進者名多数 (読めない) 」
庚申塔:「奉〇〇庚申供養 元禄九 壬申 十二月十日」
(江戸時代1696年みずのえさる)
庚申塔:「貞享三丙 夭 十一月 吉祥日 +9名の施主名」
(江戸時代1686年ひのえ)
本殿に上がる前の石垣には多くの石塔がある。長い参道には既に多くの庚申塔が有り、この地の庚申講の多さを知ることが出来た。
社殿は見ごとなものだ。社殿横に由緒書きの碑がある。
境内には巨大な椎の木「白旗の椎」がある。まずめったにない枝の広がりと太さ (周囲4.6m) だ。白旗なので、源氏ゆかりの木だ。源義家奥州下向の際、ここで休憩したと伝わる。この木だけでも見る価値がある。
鳥居を潜り、桜並木の参道を抜けると巨木に包み込まれた神社にたどり着きます。
東峯八幡(とうのみねはちまん)、もしくは八幡大神(はちまんだいじん)と呼びます。
この場所は俗称「八幡山(はちまんやま)」と呼ばれ、たくさんの染井吉野(ソメイヨシノ)が植えられており、春は山道が花吹雪で桜色に染まります。
神社がある境内には、一帯を包み込むほど巨大な椎の木があり、神社を象徴しています。
歴史的には、1114年(永久2年)に、この土地を代々治めてきた名主である「渡辺三左衛門」が神仏を降臨させ、祭り始めたとされています。
神社は当初、中打越に建てられれいたそうですが、1765年(明治2年)に、今の場所に移設されました。
境内にある椎の木は「白旗の椎」と呼ばれており、源義家(源頼義の長男で、通称は八幡太郎、源頼朝の祖先です)が奥州に向かう際に、ここで休憩したとされています。
旧東海道から合流する道には参道入り口を示す石道標がありました。
民家の間を抜けるように進むと白い鳥居と石碑が現れます。
真っ直ぐな参道を抜けると、大きな椎の木の御神木と緑の木々に囲まれた美しい朱が映える荘厳な本殿と出会いました。
綺麗に掃除が行き届いていていて、親子連れの姿も見られました。地元に愛された神社なのでしょう。
空気が清んでいて、いつまでもここに居たい気分になる素敵な空間でした。
大きな椎の木の御神木も生命の力強さを感じる存在感がありました。
静かにパワーを頂いて来ました。
神々しい感じが好きになる場所ですね。