満福寺(真言宗大覚寺派 龍護山 満福寺)
住所 | 神奈川県鎌倉市腰越2丁目4−8 満福寺 |
電話 | +81 467-31-3612 |
時間 | 09:00-17:00 |
サイト | www.manpuku-ji.net |
カテゴリー | 仏教寺院, 観光名所 |
評価 | 4.3 8 件の口コミ |
Manpuku-ji Temple | |
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満福寺(真言宗大覚寺派 龍護山 満福寺) 件の口コミ
8 鎌倉彫の弁慶と義経の物語の襖絵があります。
昔の絵(浮世絵?)ではなく、比較的若い方が描いたっぽい絵ですが、大きくて圧巻です。(入館料200円)
御朱印を書いて貰ってる間に見学すると良いですよ。
にゃんこ様に会えるとラッキーかな?丸顔のかわいこちゃんでした。
社務所に小さい一輪挿し(高さ3センチ程度)があって(300円)タンポポや桜の花、スミレとかの小さい花とかをいけて会社の机に飾るのに良いかも(小さいから万が一倒れても大惨事にはなりにくいと思われw)
ちょっとしたお土産にも良いかな?
境内はとても手入れが行き届いていて、とても綺麗でした。
穴場の超絶景スポット。満福寺の右側に管理事務所のような建物があり、中にはエレベーターがあります。上ると江ノ島大橋と富士山を正面に見ることができます。(エレベーターの裏にも階段あり)案内表示が小さくて見落としがちですが、ベンチとテーブルも設置されていて、夕焼けの時間は最高です。満福寺を参拝した後に忘れずに立ち寄って欲しいおすすめスポットです。
もうほんとに鎌倉の目の前。
ここまで来て拒絶されたら心折れるよ。
と、義経の心境を慮る事のできる。
上の霊園から見られる景色に癒やされます。
腰越駅からも近いし「鎌倉殿の13人」を振り返るのには欠かせないので是非このロケーションを感じたい場所。
万福寺、管理がしっかりしてます。お参りに行く度に綺麗に管理されてます。お墓、けして御安い物ではありません。又中々行けないのが現状。でもしっかり管理されてればお墓の関係者は少なくとも安心出来ます。
萬福寺は
武蔵坊弁慶が腰越状を書いた事で有名なお寺です。
近くに行った際には
寄っています。
脇の階段を上がっていくと
江ノ島大橋や片瀬東浜や腰越の浜が見えて
眺めが素晴らしいです。
天気が良くて空気がすんでいる時には富士山が見えます。
少し余談ですが
本堂にピアノがあるのをご存知ですか?
歌手のUruさんが
デビュー前に
今は焼失してしまった建物の屋上で
ピアニストのHidenoriさん作詞作曲の「星の中の君」の動画を撮影してYouTubeにアップしました。
境内でライブをした事もあります。
Uruさんのファンの間では聖地になっています。
車で行かれる方は、江ノ電の踏切を渡り、階段右の坂を上がるとお寺の敷地内に入ります。左に曲がり、寺務所の向かい側にある鐘楼の前に2台、さらに奥に4台駐車スペースがあります。道は狭いのでくれぐれも御注意下さい。拝観料200円、御朱印は300円です (2022年6月) 。
「鎌倉殿の13人」で話題の源義経が源頼朝に鎌倉入りを許してもらうようお願いした手紙いわゆる「腰越状」を作製し、停泊した歴史的な場所です。
義経と弁慶の彫刻がかわいいです!探してみてください。
また、200円支払えば、中を拝観できます。大変オススメです。腰越状の実物もありますし、源平合戦を描いた昔の絵の実物も普通に掲示してます。襖に彫られた彫刻も美しいです。
※アクセスについて
駅からは結構歩きますが、ペーパードライバーやサンデードライバーは電車で行くことを強く勧めます。駐車場はありますが入り口が狭いですし、急勾配なので馬力のない車は厳しいです。
更に帰りは急な下り道のうえに踏切がありますので警報器が鳴っても止まれません。軽自動車だと、アクセルを踏み込んでもバック出来ません。
満福寺は義経の腰越状で名高いお寺です。一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いと、遂に平家を打倒した源義経は、壇ノ浦で捕虜にした平宗盛・平清宗の父子を鎌倉近くの腰越まで護送してやってきました。
しかしながら、源頼朝公は義経の鎌倉入りを許さず、平宗盛の父子のみを鎌倉に入れます。
理由としては、許しもなく、検非違使・左衛門尉の官位を勝手に受けたためとも、軍監である梶原景時の意見を聞かず独断で戦を進めたとも所説ありますが。。。ここ満福寺で、源義経は、兄・源頼朝公に対して弁明のため綴ったとされる手紙が「腰越状」です。満福寺には「腰越状」の下書きや「腰越状」を書いた弁慶の腰かけ岩や硯池も残されています。
満福寺にて「腰越状」とその現代訳を頂いて、恥ずかしながら初めて全文を読みましたが、切々とした心情に胸が熱くなりました。
筆を尽くして源頼朝公の情に訴えた「腰越状」ですが、鎌倉入りは許されず、「源義経」は京に戻ることとなります。
その後、「源義経」は京での挙兵に図りますが、失敗し都を落ちとなり、奥州平泉の藤原秀衡に匿われます。しかしながら、最期は源頼朝公を恐れた藤原秀衡の息子 泰衡に攻められ自刃してしまいます。
なお、自刃した「源義経」の首は美酒に浸した上で、黒漆塗りの櫃に収められ43日間かけて鎌倉に送られたと伝わっており、その首実験されたのも腰越の海岸だったそうです。
その首は、武蔵坊弁慶の首と共に近くの白旗川を遡り、今の白旗神社付近に流れ付いたそうです。その首を清めた井戸の跡も今も残っています。また、白旗に源義経の首が流れ付いたことから、白旗神社に源義経を主祭神として祀られるようになったそうです。そう思うと、亡くなった後も鎌倉入りができなかった「源義経」の無念さが「腰越状」からより強く伝わってきます。