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ララ物資の記念碑

住所 神奈川県横浜市中区新港1丁目2−1
時間 00:00-24:00
サイト city.yokohama.lg.jp
カテゴリー 史跡
評価 3.5 6 件の口コミ
Monument of the LARA Supplies
最寄りの枝
象の鼻防波堤 — 神奈川県横浜市中区海岸通1丁目1
日本初ガス灯 — 神奈川県横浜市中区相生町4丁目76
ジェラール水屋敷地下貯水槽 — 神奈川県横浜市中区元町1丁目77-18
二代目横浜駅 基礎等遺構 — 神奈川県横浜市西区高島2丁目1−1
近くの同様の会社
日本郵船氷川丸 — 神奈川県横浜市中区山下町 山下公園地先
帆船日本丸 — 神奈川県横浜市西区みなとみらい2丁目1−1
汽車道 — 神奈川県横浜市中区新港2丁目9
石鹸工場発祥の地 — 神奈川県横浜市南区万世町2丁目32

ララ物資の記念碑 件の口コミ

6
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Masazumi
19 九月 2021 20:23

2021年7月25日に訪問。以前から存在を知っていたけど改めて。
敗戦直後の食料など困窮する日本を、米国民間有志による「アジア救援公認団体」(LARA)が支援物資を日本に輸送。ここで陸揚げされました。
それを記念しての碑と、ララ倉庫訪問時の香淳皇后の御歌が刻まれています。

muradon8150
03 三月 2021 12:26

ララ:Licensed Agencies for Relief in Asiaの頭文字から採ったもの。
戦後の物資不足を補う為に、全米の宗教団体が中心となり、アジア各地へ支援物資を送る船舶の第一船が、横浜港へ着岸し、その後6年間続いたそう。

parallel.think.
29 三月 2020 11:37

横浜海上防災基地の入り口横にひっそりとあります。横浜赤レンガ倉庫から臨港パークに向かう時、目にはしていたのですが、あまり深く考えずにいつも通り過ぎていました。石碑にはララ物資と掘られており、Wikipediaによると、ララ物資(ララぶっし)とは、ララ(英語: LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)が提供していた日本向けの援助物資のこと。」とありました。また、「支援物資は、1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までに行われ、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となった[1]。多数の国家にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったため、その救援総額は不明であるが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったといわれている」とあり、まだまだ表面的ですが、非常に大きな援助があった事が学べました。石碑には香淳皇后(昭和天皇の皇后)のお名前もありました。小さな石碑ですが、歴史の深さと人の暖かさを感じる事ができました。

今日も明日も幸せ探し隊。
28 五月 2019 23:44

ララ物資の記念碑は、ララ物資が最初に上陸した横浜の新港パークに作られた記念碑です。

第二次世界大戦後の日本は、衣・食・住の全てが不足していました。人々は極限状態での生活を強いられていたそうです。

それを救ったのがララ物資でした。
「ララ」とは、License Agency for Relief in Asia(「アジア救済連 盟」)の頭文字からだそうです。

この支援に対する感謝の意を表し、戦後の日本における時代背景を今に語っているかのようで、横浜らしい碑でもあります。

BMW
17 九月 2018 0:13

ララはアメリカ合衆国連邦政府の救済統制委員会(アメリカ合衆国大統領直轄の機関)が、1946年(昭和21年)6月に設置を認可した日本向け援助団体。1946年(昭和21年)1月22日に、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人浅野七之助が中心となって設立した「日本難民救済会」を母体としている。

当時、アメリカ合衆国における対外的な慈善活動は「海外事業篤志団アメリカ協議会」 (American Counsel of Voluntary Agency for Work Abroad) が担っていたが、その対象地域はヨーロッパのみであり、日本は含まれていなかった。そのため、日本に対する援助物資輸送のために、新たな援助団体を設立する必要があった。アジア解放前の抗日運動が冷めやらぬ中での「アジア救援公認団体」認可に際しては知日派のキリスト友会員の協力によるところが大きい。

支援物資は、1946年(昭和21年)11月から1952年(昭和27年)6月までに行われ、重量にして3300万ポンド余の物資と、乳牛や2000頭を越える山羊などもあり、全体の割合は食糧75.3%、衣料19.7%、医薬品0.5%、その他4.4%となった。多数の国家にまたがり、多くの民間人、民間団体からの資金や物資の提供であったためその救援総額は不明であるが、推定で当時の400億円という莫大な金額であったといわれている。

Dokubarisappou
25 八月 2017 13:58

戦後、荒廃し物資も不足していた日本にアメリカの有志の人たちが物資を送ってくれ、それが戦後の日本を支えることになったことを祈念して作られた碑です。東日本大震災のときの「ともだち作戦」などとともに、日米の結びつきの強さをあらためて感じさせてくれます。

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