常照寺
住所 | 神奈川県横浜市南区南太田1丁目24−41 |
電話 | +81 45-731-4366 |
サイト | www.jyoshoji.or.jp |
カテゴリー | 仏教寺院 |
評価 | 4 7 件の口コミ |
Saichuzan Joshoji | |
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常照寺 件の口コミ
7 京急線が走ってる下に参道があると言う、珍しいお寺です。参拝後に裏山に登って行くと高さ10m程の日蓮大聖人像が佇んでおられました。こちらは【鬼子母神】安産と子育ての神様で
八代将軍徳川吉宗のころに大奥に祀られ、この寺の守護神だそうです。帰り際、大本堂の左側にある大客殿のベルを鳴らして御朱印をお願いしたところ、快く手書きで書いていただけました。
大岡川へ桜を見に行き、京急南太田駅から桜の木が見えたのでお邪魔しました。
門を入るとすぐ上を京急が走っています。 山門の右手に大きな桜が見えます。 残念ながら散り始めており、満開の時期は過ぎていました。
なかなか雰囲気の良いお寺です。
南太田駅裏にある、お寺。
本尊は、鬼子母神。子供の守り神のお寺です。
昔から(は)、子どもの疳の虫などを抑える目的でお参りをするお母さんが多かったところ。
時代が変わって、今はとっても静かなお寺という印象です。
今でも 子どもとともに、祈祷してもらい、疳封じの『ゴマ?』をもらうことができるのでしょうか?
今はもしかすると、境内の桜の方が知名度が高くなっているのかもしれません。
京急南太田駅のホームの下から登っていく参道にある門には、見事な木造の阿吽の像があります。
I noticed a statue from Anytime fitness and walked to explore this place.
I found a shrine and you take stairs to reach to the top to find a statue and graveyard.
Also you see the Yokohama city from the top.
西中山常照寺HPより
当山は、山号を「西中山」(さいちゅうざん)寺号を「常照寺」(じょうしょうじ)といい、通称「太田(あるいは南太田)の鬼子母神」として有名である。
その草創は、明治6年…千葉 市川 大本山 正中山 法華経寺第112世 河田日因貫首(本良院日因上人)は、文明開化の槌音高き横浜に、布教拠点を設立せんと欲(ほっ)し「横浜 西太田(現 南太田)説教所」を建立することに始まる。…(初め『鬼子母神八日講』と称し、後『横浜西太田説教所』の名称となる)。
明治8年、河田貫首は、喜多村日修(慈教院日修)上人を、その担当に任ず。上人32歳の砌である。
喜多村上人、勇猛精進(ゆうみょうしょうじん)の布教伝道の成果は、明治12年「横浜西太田説教所」を「西中山 常照寺」とし、遂に寺号公称(正式に寺院と認められたことを広く知らしむる事)の結実を見、初代住職に就任する。上人を当山の開山とする由縁である。
明治13年、喜多村上人は中山 遠寿院(荒行堂併設寺院)に入寺。常照寺と兼務をする。
のち、上人は明治32年 京都 洛東 本山頂妙寺に入山。そして明治44年、千葉 中山 大本山 法華経寺に入山 第118世 貫首となる。
さらに大正5年、第21代日蓮宗管長となる。
明治19年、常称寺第二世として、今井日誘(寛心院日誘)上人を住職とする。のち、上人は千葉 小湊 大本山 誕生寺に入山され、貫首となる。
明治44年、常照寺第三世 服部存忠(温厚院日義)上人、法灯継承。
大正13年、常照寺第四世 植木泰運(妙音院日研)上人、法灯継承。(当山中興)
日研上人は日蓮宗大荒行五行成満の大験者、その修法布教の成果は多数の信徒が檀家となられ、現在の常称寺の礎を築かれた法功は多大であり、当山中興と称される由縁である。
昭和28年、常照寺第五世 伊東泰岳(一妙院日健)上人 法灯継承
昭和56年、常照寺第六世 伊東隆司(泰導院日隆) 法灯継承 現在に到る。
扨、常照寺法灯高揚の由縁は、先師の丹精も然ることながら、当山に祭祀せられたる「鬼子母大尊神」の霊験に与かる事、大である。
抑、当山に奉安の「鬼子母大尊神」は、八代将軍・徳川吉宗公の頃より、江戸城大奥に、子孫繁栄の守護神として祭祀せられ、のち「大政奉還」の折に、徳川家信仰の「秋葉大権現」「若宮八幡」そして「吉宗公」の各尊像と共に、下総中山 大本山 法華経寺へ納められたるもので、明治8年・・・日因上人より日修上人が、その・・・各尊像を「徳川家永代供養の過去帳」と共に拝受し「横浜西太田説教所」へ安置されたものである。各尊像を納めた厨子(ずし)には、そえぞれ「三葉葵」の紋が施され、これが・・・当山の「寺紋」「三葉葵」となった由来である。
「鬼子母大尊神」の霊験著書の様は、草創の時より、昭和期に至るまで、目覚ましいものがあり、近郊近隣の他宗門の檀徒が、多数改宗し、当山の檀信徒となり、現在の常照寺の礎を築いたることをみても明らかである。
大きな寺歴は、明治の末年頃、豪雨により裏山の崖崩れがおこり、堂宇が倒壊。服部日義住職指揮のもと、檀信徒一丸となり堂宇再建に傾注。
大正4年(大正6年の説もあり)頃に堂宇完成。大正12年の「関東大震災」には本堂は被災を免れたが、庫裏は倒壊せずも被害を受ける。大正13年、植木日研上人大四世住職となり、更なる再建に邁進。入母屋造りの本堂屋根の正面に大千鳥破風、さらにその前下方に唐破風の三連造り、みるも豪荘・重厚な本堂は周囲を圧倒する迫力に満ちている。(唐破風三連は非常に珍しく、他に例を見ない)間口十二軒半の大本堂は、木造では現在横浜第一を誇る。
昭和20年5月・・・横浜大空襲にて、周辺ことごとく灰燼に帰すも、当山は奇跡的に被害を免れ、被災者の収容場所として大いなる貢献を果たす。
昭和28年 伊東日建上人、第五世住職を継承。
48年に本堂屋根替えの工事に着手、瓦屋根を、銅版瓦棒茸きとし、併せて大客殿の建立に尽瘁、昭和51年に竣工す。
昭和60年、大本山 法華経寺の秘仏「鬼子母尊神(日蓮大聖人が自ら彫られたと伝えられている御尊像)」の出開帳(本来、門外不
出の御尊像を特別に、他所に出して公開すること)を10月18日、当山の「お会式」にあわせて盛大に行う。江戸後期より行われていなかったもので、大本山法華経寺貫首、渡部日皓猊下の特別の計らいであった。
昭和56年 日蓮大聖人第700遠忌の砌、神奈川県第一部宗務所管内(横浜・川崎・相模原・座間地区の寺院・教会・結社のあつまり)
の報恩事業として、当山山頂に日蓮大聖人大銅像(台座含み10m)を建立し、管内僧侶総出仕・各寺院檀信徒参集のもと開眼大法要を営む。
この時、日蓮大聖人御入滅の聖地、東京 池上 大本山 本門寺を目指して 二年の月日を費やし日本を縦断すべく、行脚展開中の「全国縦断唱題行脚隊」の多数の青年僧侶が式典に参加、法要を大いに盛り上げる。
昭和57年、伊藤日隆…第六世として法灯継承す。平成元年、当山の念願であった「鐘楼」建立を初願、その年・・・富山県高岡において「大梵鐘「平成の鐘」の「火入れ式」を厳修する。併せ、山門の支柱による入母屋造り、四方の蟇股(かえるまた)は一辺に三基を配し、それぞれの方位にあわせ、十二支の彫刻が施されている壮麗な堂宇である。毎日午前・午後の六時に梵鐘が打ち鳴らされ、時の鐘として地域に親しめられている。特に毎年、大晦日の「除夜の鐘」そして新年午前零時の「新春祈願会」には多数の初詣者で賑わう。
2019/03/15参拝
車窓から山門が見えたので、興味本位で飛び込みました。宗派も何も知らない状態でしたが、丁寧に時間をかけて朱印御題目を書いて頂きました。
ほんとに丁寧に書いてくれていました。
また、先日亡くなった従兄弟について、追善するにはどうするのが良いか尋ねたところ、商売本位ではない僧侶的な回答して頂き少しココロがかるくなりました。