高野山真言宗 光明山 東福寺
住所 | 神奈川県横浜市西区赤門町2丁目17 |
電話 | +81 45-231-4094 |
サイト | tesshow.jp/yokohama/nishi/temple_akamon_tofuku.html |
カテゴリー | 仏教寺院 |
評価 | 4 7 件の口コミ |
Tofukuji | |
最寄りの枝 |
|
近くの同様の会社
|
高野山真言宗 光明山 東福寺 件の口コミ
7 藤棚浦舟通りを歩いていたところ、立派な朱塗りの赤い門を発見。
お寺には珍しい赤門の両脇には仁王像が立っています。
本堂の手前には閻魔堂が有り、立派な閻魔様がいました。
朱塗りの山門が特徴で、阿吽の仁王像が出迎えてくれる。
赤門の名で地元では知られ、この辺りの町名も赤門町だ。
境内は花が美しいので、檀家ではないけど年に数度は行くお気に入りの場所。
南区にこんな素敵なお寺があったなんて大発見でした。浄財にお賽銭を入れるとキレイな音がなるんですよ。コレまた素敵!この日は御住職が不在のため書置きの御朱印をいただいて来ました。4種類あるのでまたお参りに伺おうと思います。
内田いも屋の帰り道、伊勢佐木モールへと向かい、住宅地を沿うように狭い坂道を下っての動中、真っ赤な門に惹かれて拝観しました (*´ω`*)
不動明王像の後ろに閻魔大王が配されているのを観たのは初めてです!
閻魔堂にお参りしました。
お賽銭を入れると音がなります。
御朱印が4種類ありますが、3種類拝受しました。法事前でお忙しいところ、丁寧に対応していただきました。
鎌倉時代の天皇の勅願寺にして戦国時代関東最高の軍師、太田道灌公が中興した寺院。高野山真言宗。
始まりは寛元元年 (1243年) に後嵯峨天皇が鎮護国家を願い元心法印に開かせた勅願寺。
以前は更に大岡川 (旧蒔田湾) 寄りの海辺に存在した。
現在の関内~野毛~黄金町~吉野町~真金町~伊勢佐木長者町は江戸時代まで蒔田湾と言う入江だった。現在の神奈川県庁~ニューグランドホテル辺りには横浜市の地名由来に成った「横浜」の半島が湾の入口を塞ぐ形で、丁度、東福寺の旧所在地辺りが湾の入口だったと思われる。
旧地の立地から海防や治水の願いを込めて勅願所に成った事が推測出来る。
東福寺が開かれた年にキプチャク・ハン国が中東に建国される等、田畑を食い荒らすイナゴの如くチンギス・ハンの侵略の“黄禍”が世界を恐怖のドン底に陥れていた時期で、後嵯峨天皇の御心痛と寺院建立に尽力したであろう鎌倉幕府の武士達の緊張が御寺の歴史からヒシヒシと伝わる。
御寺は後に荒廃していたのを、室町時代に築城の名手にして合戦無敗の名軍師だった太田道灌公により復興される。
復興されたと言う事は事実上は廃寺で、鎌倉幕府滅亡時に新田義貞がありとあらゆる神社仏閣で略奪放火の狼藉を働いていたので、その時に例に漏れず荒廃したのだろう。
近くに南太田駅等の地名に太田が残る地域は戦国時代初め頃に太田道灌公の領地だった歴史に由来する。
太田小学校が太田道灌公の城館跡と伝わるが、旧蒔田湾の対岸の蒔田地区、英和学院の有る丘には太田道灌公の親友で名称の蒔田吉良成高公の居城の蒔田御所が存在した。
東福寺の歴史は天皇家や名将達の歴史や世界史にも通じる感慨深い物語が有る。
東福寺は、その歴史から赤門の設置が許され今に、その伝統を伝え守る。
寺紋が徳川家より葵紋を許されている経緯等は現在の御住職様達には伝わっていないが、恐らく家康公の愛した側室の於梶の方 (英勝院) 様が道灌公の御子孫に当たるからだろう。