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駒形天満宮

住所 神奈川県横浜市神奈川区西寺尾4丁目28−2
電話 +81 45-432-3807
サイト www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4
カテゴリー 神社
評価 3.6 7 件の口コミ
Komagata Tenmangu
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駒形天満宮 件の口コミ

7
並び替え: 日付 最高評価 最低評価 最も参考になった
Ann
09 十一月 2022 15:38

社殿は小さいが、しっかりした
作りをしている。多少の劣化は
否めないが、元々が立派なのか
威容は保っている気がする。
唐破風が付いているのは珍しい
かもしれない。
地元の信仰は厚いようだ。

Yuji
02 五月 2022 16:44

境内の表示板より
房州(千葉県)の豪族 里見義高の随巨だった平田兵庫が一七二九年(享保十年)に氏神として建てた天神者に西寺尾村駒形在の住人により一七四一年(元文五年)に創立された駒形社を合祀し、駒形天満宮と改め今日に至る。
菅原道真を祀り、学術と情愛の守護神として崇められている。
昭和四十七年四月
西寺尾郷士研究会

manabu
20 六月 2021 16:45

小高い丘の上にあるこじんまりとした神社。
本殿は長い階段を登った先にあり、そこから見える富士山などの眺めが結構いい感じです。

榎田裕志
04 十一月 2020 19:29

普段はひっそりしていますが、初詣の時は拝殿内部も公開され、甘酒も頂けます。
参道入口の脇がゴミの集積場になってたりして、ちょっとどうかと思いますが‥

松島音丸
23 十月 2020 6:58

駒形天満宮の合祀以前は天神社と駒形社がありました。天神社は高さ20~30mの山の上にあり、御神体は画像 (およそ20cm) で、それを板に貼りつけ享保14年の文字が板に書かれていたものの正しい数字である根拠はなく古くはないと記述されています。
駒形社は元文5年 (1740年) 建立と伝わり、里見義高という人物が居りし頃に使用人の馬丁 (ばてい:現在の厩務員に相当) が、後に村から去った時期から年月を経て疫病が流行して原因がわからず悩んでいたところ、熱田の神職が来ていたので相談してみると、馬丁の祟りと里人に告げられたので、家12軒が相談して彼を駒形明神と崇めて氏神としたところ、祟りも止んだという。御神体は一つの岩で一貫目 (約4㎏) とされる。
境内には末社として稲荷の小祠もあります。また庚申信仰では、松蔭寺の道標として庚申塔が置かれて青面金剛 (しょうめん_こんごう) 像を見る事ができます。
この他に観音堂と里見義高墓に五輪塔もありましたが、松蔭寺に移されています。五輪塔はオリンピックではなく供養塔の事です。「鶴見事故慰霊塔」の画像を見ていただくと解りやすいでしょう。石造りでは下から方形 (6角形もあり) の地輪・球形の水輪・宝形屋根 (四ツ屋根) 型の火輪・半球形の風輪・最上部が宝珠 (いわゆる玉ネギ) 形の空輪で構成されます。松蔭寺では所在が確認できません。
義高公は後に出家、人々の安寧を願い「即身成仏 (そくしん_じょうぶつ) 」の行に入り、仏となって「里見入道」と呼ばれる事になりました。その後の言い伝えでは病で悩める者は五輪塔に祈れば必験あり。小石を一つ取り (借り) 悩める所を撫でると治る。小石を戻す際は二つにして納めるとの事ですが、台座の石がないとの記述があり、村人が台座の石を欠き取って小石とした例も見られたのではないでしょうか。
社殿は後に建つのが天神社と考えられ、前に継ぎ足されて見えるのが駒形社に相当すると解されます。古さの象徴である寺院建築になっています。明治期以前は神仏習合祭祀形態 (しんぶつ_しゅうごう_さいし_けいたい) であり松蔭寺の別当でした。

祟りの事情では馬丁は村の娘と逐電 (ちくでん:いなづまの事で、素早く行動して行方をくらます) して殺害されたとなっています。当時の農家は小作で小作料と年貢で収穫するも取り分は僅かしかありませんでした。有名な「おしん」の描写とおなじく貧しさしかありません。娘は嫁入りと称して牛馬1頭と引き換えに一生ただ働きの使用人になるため差し出されます。男子が産めない、病気で働けない状況になれば離縁となりますが、さらに悲惨な運命が待っています。奉公に出られるのはマシで、凶作で借金地獄に陥った小作では娘を借金の形に取られて飯盛女 (めしもりおんな) にされてしまいます。これは宿屋に奉公した形を取って売春を強要される立場です。私的売春は幕府が禁止 (公認は遊廓のみ) していましたが、宿屋については黙認されていました。売り上げは衣装代や親の借金等を名目に総て略取され新たな名目の借金も追加されて逃れる事は不可能でした。
結核や性病に罹り短命に終わる事もあります。つまり村にいても辛い将来だけしかみえません。馬丁が娘を不びんに思い一緒に脱出をしようとするものの村外れの山道で追いつかれて馬丁は殺害され、娘は連れ戻されました。お金の元である娘を奪われる怨念は殺害で果たされますが、悪行は祟りの形で返ってきます。里見義高がこの件を手引きした一端もあり、後の出家にもつながっていくのも想像に堅い事です。小作人は生かさず殺さずの状況をつくり奉公人の供給源とした地主は斡旋料も懐にしてますます繁栄するわけです。
駒形天満宮には里見義高公の村人への思いが込められているのです。

***拝殿の屋根には経巻瓦を棟に用いています。経巻と桃果の彫刻はどちらも魔除けの意味があります***

松島音丸
06 七月 2019 21:51

駒形天満宮の合祀以前は天神社と駒形社がありました。天神社は高さ20~30mの山の上にあり、御神体は画像 (およそ20cm) で、それを板に貼りつけ享保14年の文字が板に書かれていたものの正しい数字である根拠はなく古くはないと記述されています。
 駒形社は元文5年 (1740年) 建立と伝わり、里見義高という人物が居りし頃に使用人の馬丁 (ばてい:現在の厩務員に相当) が、後に村から去った時期から年月を経て疫病が流行して原因がわからず悩んでいたところ、熱田の神職が来ていたので相談してみると、馬丁の祟りと里人に告げられたので、家12軒が相談して彼を駒形明神と崇めて氏神としたところ、祟りも止んだという。御神体は一つの岩で一貫目 (約4㎏) とされる。
 境内には末社として稲荷の小祠もあります。また庚申信仰では、松蔭寺の道標として庚申塔が置かれて青面金剛 (しょうめん_こんごう) 像を見る事ができます。
 この他に観音堂と里見義高墓に五輪塔もありましたが、松蔭寺に移されています。五輪塔はオリンピックではなく供養塔の事です。「鶴見事故慰霊塔」の画像を見ていただくと解りやすいでしょう。石造りでは下から方形 (6面体もあり) の地輪・球形の水輪・宝形屋根 (四ツ屋根) 型の火輪・半球形の風輪・最上部が宝珠 (いわゆる玉ネギ) 形の空輪で構成されます。松蔭寺では所在が確認できません。
 義高公は後に出家、人々の安寧を願い「即身成仏 (そくしん_じょうぶつ) 」の行に入り、仏となって「里見入道」と呼ばれる事になりました。その後の言い伝えでは病で悩める者は五輪塔に祈れば必験あり。小石を一つ取り (借り) 悩める所を撫でると治る。小石を戻す際は二つにして納めるとの事ですが、台座の石がないとの記述があり、村人が台座の石を欠き取って小石とした例も見られたのではないでしょうか。
 社殿は後に建つのが天神社と考えられ、前に継ぎ足されて見えるのが駒形社に相当すると解されます。古さの象徴である寺院建築になっています。明治期以前は神仏習合祭祀形態 (しんぶつ_しゅうごう_さいし_けいたい) であり松蔭寺の別当でした。

 祟りの事情では馬丁は村の娘と逐電 (ちくでん:いなづまの事で、素早く行動して行方をくらます) して殺害されたとなっています。当時の農家は小作で小作料と年貢で収穫するも取り分は僅かしかありませんでした。有名な「おしん」の描写とおなじく貧しさしかありません。娘は嫁入りと称して牛馬1頭と引き換えに一生ただ働きの使用人になるため差し出されます。男子が産めない、病気で働けない状況になれば離縁となりますが、さらに悲惨な運命が待っています。奉公に出られるのはマシで、凶作で借金地獄に陥った小作では娘を借金の形に取られて飯盛女 (めしもりおんな) にされてしまいます。これは宿屋に奉公した形を取って売春を強要される立場です。私的売春は幕府が禁止 (公認は遊廓のみ) していましたが、宿屋については黙認されていました。売り上げは衣装代や親の借金等を名目に総て略取され新たな名目の借金も追加されて逃れる事は不可能でした。
 結核や性病に罹り短命に終わる事もあります。つまり村にいても辛い将来だけしかみえません。馬丁が娘を不びんに思い一緒に脱出をしようとするものの村外れの山道で追いつかれて馬丁は殺害され、娘は連れ戻されました。お金の元である娘を奪われる怨念は殺害で果たされますが、悪行は祟りの形で返ってきます。里見義高がこの件を手引きした一端もあり、後の出家にもつながっていくのも想像に堅い事です。小作人は生かさず殺さずの状況をつくり奉公人の供給源とした地主は斡旋料も懐にしてますます繁栄するわけです。
 駒形天満宮には里見義高公の村人への思いが込められているのです。

KEIGO
17 一月 2019 14:40

よくランニング時に通ります。冬は特に富士山が見えてgood。

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