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鶴岡八幡宮 今宮

住所 神奈川県鎌倉市18
電話 +81 467-22-0315
時間 00:00-24:00
サイト www.hachimangu.or.jp
カテゴリー 神社
評価 3.2 6 件の口コミ
Tsurugaokahachimangu Imamiya
最寄りの枝
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鶴岡八幡宮 — 神奈川県鎌倉市雪ノ下2丁目1−31
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鶴岡八幡宮 今宮 件の口コミ

6
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鈴木一茂
09 六月 2022 1:28

電車で行くのならば、JR横須賀線&江ノ島電鉄線・鎌倉駅東口から歩いて15分くらい、JR横須賀線・北鎌倉駅から歩いて20分くらい、バスで行くのならば、江ノ島電鉄バスで鎌倉八幡宮前バス停、または八幡宮裏バス停からすぐ、京浜急行バスで八幡宮バス停下車からすぐ、車で行くのならば、横浜横須賀道路朝比奈ICから20時強くらいのところにある、観光地・鎌倉のシンボル的存在として鎮座する神社である。この鶴岡八幡宮は、もとは1063(康平6)年、源頼義が平忠常を打ち取ったことを喜び、京都の石清水八幡宮をひそかに勧請し、由比ガ浜辺り(現在、元八幡のある場所)に鎮座した由比若宮にはじまる。それから約120年後の1180(治承4)年、頼義の5代後にあたる源頼朝が鎌倉に入った時、祖宗を崇めるために由比若宮社を小林郷の北の山(現在の下拝殿付近)に社をかまえて奉還した。頼朝は後ろの山の中腹を切開き、あらためて石清水八幡宮の分霊を勧請して、装いを新たに鶴岡八幡宮を創建し、ほぼ現在の上下両宮配置となった。祭神は八幡大神とされる、応神天皇・神功皇后・比売神の三柱である。鶴岡八幡宮は鎌倉武士の精神的団結の拠点であり、幕府の重要な政策はそこで神意を問う形で実施された。頼朝が八幡宮を信仰したので、諸国の武士たちもこれを手本にし、国中に数多くの八幡宮がまつられるようになった。頼朝の死後も、執権を務めた北条氏をはじめ、足利氏や豊臣秀吉、徳川氏などの時の最高権力者も再建、復興に努めるなど時代を問わず、篤い崇敬を受けている鎌倉のシンボル的存在なのである。鶴岡八幡宮は鎌倉幕府の守護神であると同時に、宗教政策の要として幕府の各種公式行事が執り行われるなど、最も重要な位置にあった神社である。頼朝が始めたとされる初詣をはじめ、今もなお、年間を通じて様々な伝統行事が行われている。中でも幕府の最重要宗教行事として始まった放生会の伝統をひく例大祭は流鏑馬神事の奉納を含め、毎年9月に実施されている。境内の最奥に鎮座するこの今宮は、後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇をお祀りしている。現在の御社殿は令和3年に竣工した、最も新しい御社殿になる。

Sisei
21 五月 2022 0:50

源頼朝亡き後、北条義時・北条政子と後鳥羽上皇が争った承久の変(1221)が起きました。
戦に敗れた後鳥羽上皇、土御門天皇、順徳天皇は流罪になります。やがて延応元年(1239)3月、後鳥羽上皇が隠岐で亡くなると、その年は日本中で疫病、争い事、飢饉が起こりました。

鎌倉でも方々で喧嘩が起こり、5月25日には大騒動になったそうです。
それから三年の間に、承久の変で京都へ攻め上った北条泰時、北条時房、三浦義村ら主だった将が相次いで急死しました。
総大将であり幕府執権の北条泰時は凄まじい高熱に苦しみ抜いて亡くなりました。
また後鳥羽上皇に仕えた僧侶長賢の霊が取り憑いた少女が「以前より後鳥羽の使いで関東に来ていた。執権北条時頼の屋敷に住みついておったが、祈祷で追い払われた」と語ったりしたそうです。

京都の朝廷はこれを怨霊と化した上皇の祟りであるとして、鎮める為に今宮を建てて上皇ら三人と長賢(長厳ともいう)を祀り、鎌倉をはじめ国中で今宮を建てて祀るよう指示しました。

今宮はかつてはコンクリートの社でしたが、令和元年(2019)の台風で損壊し、令和3年(2021)に白木と銅葺き屋根の簡素だがとても美しいお社に立て替えられました。

背後の森にはかつて六本杉という、一つの根から六本の幹が出た杉の巨木があり、天狗が住む魔境であったと言われています。

しかし今は木がめちゃくちゃに伐採されて森は荒れており、斜面には無粋な白い土嚢が無造作に積まれ、白木の宮にそぐわないコンクリートの擁壁が造られ、すべてが乱雑で心無い印象を受けます。文化財の保全活動であるにも関わらず景観への配慮が無く残念です。

今野豊美
05 七月 2020 23:23

今宮 (新宮神社)
祭神:後鳥羽天皇、土御門天皇、順徳天皇 - (いずれも承久の乱で幕府に敗れ流された天皇)
鶴岡八幡宮の境外末社の一つで、駐車場の奥へ行ったところにひっそりと建つ。
1247年(宝治元年)後鳥羽上皇の怨霊を恐れて創建されたものといわれています。

エデン
17 八月 2019 4:31

鶴岡八幡宮のすぐ裏にあるのにも関わらず
静寂に包まれた神社でした!
この場所に入って感じたことは
此処だけ空間が切り取られてるような感じがしました!不思議な場所です!

白髪ハウル
15 十二月 2018 7:28

新宮神社、今宮とも呼ばれまた「新宮」と書いて「いまみや」とも読まれる例もある。
創建も古く1247年
当時の政敵とはいえ天皇を三人も祀った神社にしては、あまりにも粗末。
社はいつ建てられたのか分からないがコンクリ仕立てで威厳が微塵も感じられない。
もともと、怨霊信仰の最たる神社だしコンクリで封じ籠めようってのかな?
一代前(たぶん)の社殿は明治時代に小町大路沿いにある蛭子神社に下ろされ移築されたが、関東大震災で破損、現在は新しい社殿の中に籠められる形で残っている。

谷戸の最奥で、江戸時代の「新編鎌倉志」には「社の後ろは深谷なり、一根にして六本に分かれたる大杉あり。魔境にて、天狗ここに住むという」と書かれる様に、三方を崖に囲まれた立地はなかなかの雰囲気だが扱いが残念過ぎる。

鶴岡八幡宮の摂社なのだから、それなりの社殿に立て直して欲しい。

カスケ
30 三月 2018 7:20

またの名を今宮 (いまみや)
御祭神は
後鳥羽天皇 (ごとばてんのう)
土御門天皇 (つちみかどてんのう)
順徳天皇 (じゅんとくてんのう)
承久の乱で隠岐に流された後鳥羽上皇の怨霊を鎮めるために1247年に創建。伝説によると1239年、鎌倉で喧嘩や争い事が多発した。
特に5月25日は一層酷く同年隠岐で崩御した後鳥羽上皇の恨みが原因と考えられて今宮 (いまみや) を建立とありました。
今宮までの経路が分からず何度も迷いました。
しかし、苦労してたどり着けた分の感動は一入!
本宮 (ほんぐう) の喧騒とした雰囲気とは一変、静寂でしんとした空間が広がる素敵なお社でした (^O^)
鶴岡八幡宮の警備員さんに聞いてからお参りするのが最良だと思います

【御朱印】なし

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