法隆寺
法隆寺 件の口コミ
7 2022/01/02
開山した日出上人は、鴨川の誕生寺 (日蓮聖人の誕生した地に建つお寺) の11世。調べてみると、鎌倉の本覚寺、山梨の正法寺や正行寺等の開山にも関わっています。というわけで、こちらも日蓮宗のお寺です。
住宅街にあるお寺ですが、檀家向けの寺院という風で、三ヶ日の初詣シーズンでもかなりヒッソリしていました。谷際に建っていますが、菊名駅からは平地です。綱島街道方面の坂に建立されており、斜面に墓石が並ぶさまはなかなかです。
菊名駅からのアクセスとしては、線路際を通れば平坦な道をずっと通ってこれるかと思います。綱島街道から直でおりようとすると、急階段を通る必要があります。法隆寺交差点に面して駐車場があるようで、そこから墓地を突っ切って本堂にアクセスする事も可能です。
神奈川県に法隆寺がある! という事を知ったのはたまたま菊名を訪れる用事があったからです。
フルネームは『蓮福山 法隆寺』。
菊名駅から徒歩15分。綱島街道や首都高速神奈川7号横浜北線沿いにあり、法隆寺前のバス停もあり、交通の便は悪くはありません。
入り口前には石垣で囲んでかさ上げされた土地に大きなイチョウの木が生えて出迎えてくれます。
これだけ大きな木がこんな石垣サイズで大丈夫かと木になりますが心配ご無用で、イチョウの根は石垣の根元から飛び出し、歩道のアスファルトを割るほど力強い樹勢を示していました。
他の木も豊かで夏らしく山門前には赤い花を咲かせるサルスベリや、境内内にはスギやケヤキの大木が生えています。
ケヤキはイチョウとは対照的に窪地に植えられていました。
さて、しかし気になるのは山門前のイチョウの根元の石碑にある『南無妙法蓮華経』の文字です。
聖徳太子が法隆寺を建立した時代には日蓮は生まれていません。日蓮も古い仏典から法蓮華経を発見したというし、あながち間違いではありませんし、本堂前の石碑では『武蔵の法隆寺』と書かれています。
ちなみに、旧武蔵国は今の東京と埼玉のみならず、神奈川県の東岸も含まれていたので、こちらも間違いではないのでしょう。
早速御朱印をいただきがてら、お寺の縁起・ご由緒を伺おうとしてみましたが、2度にわたる火災で資料は焼失してしまったとの事。言われてみると、寺務所にはお守りなのか、昔の火消しが使っていたマトイがありました。
しかしながら、寺務所では俎板岩の上で祈るご法難にあった日蓮 (鎌倉幕府から島流しの刑を受けたのですが、荒天から護送する役人が小さな岩に日蓮を放置して逃げ帰ったというひどい事件でした) の絵を掲げてあり、こちらについてはお伺いできました。鞍馬天狗の挿画師によるものだそうです。
他にも寺務所の奥には、同じ画家による初めて南無妙法蓮華経を山の上で唱えた日蓮の姿の絵もあるそうでした。
ご由緒も古く、古くから信仰を集めてきたお寺である事が偲ばれます。
さて、お寺の縁起書きは全くないわけではありません。代わりに頂いたのが、地元の新聞のコピーでした。
[縁起]
それによると、墓地に出土する板碑の様式から鎌倉時代にはすでに存在していたお寺のようでありました。
当初は日蓮宗ではなく他宗に属してしましたが、戦国時代に改宗して日蓮宗になったと伝えられています。
有名な奈良の法隆寺は聖徳宗と言われる宗派でした。
開山当時から途中で宗旨替えするお寺というのは、たまにあります。とあるお寺は、名家の出が代々住職を務めており、名家の血をつなぐために肉食妻帯が許可される浄土真宗に宗旨替えしたり、別のお寺は日蓮宗との法論に敗れて宗旨替えしたりした例を、私は見てきました。
この神奈川県の『蓮福山 法隆寺』がいかなる理由で日蓮宗になったのかは定かではありませんが、戦国時代という乱世にあって、目まぐるしく変わる領主から保護を受けるために日蓮宗になる必要があったかもしれませんし、戦火に焼かれ、見捨てられたお寺を日蓮宗の僧侶が復興したのかもしれません。
ともあれ、宗旨替えがあったにせよ法隆寺の名は守られたわけです。
日蓮宗大本山である千葉県小湊の「誕生寺文書」によると、当寺の日蓮宗としての開山は誕生寺第11世の日出聖人[天文19年 (1550年) 7月6日示寂]であります。現在は第37世磯貝宜明住職だそうです。
※ちなみに当日はご住職不在でしたが、書き置きの御朱印を頂けました。
『武蔵風土記稿』には「門の左に三十番神堂」ありと記され、寛政年間 (1789~1800) に建立された7間4面の本堂とともに諸堂完備していたと伝えられています。
また、「横浜市史稿」には、「本尊は一塔両尊・四菩薩・四天王・不動・愛染・文殊・普賢・鬼子母神・十羅刹女・三十番神・日蓮大菩薩などの木像である」とある。
等身大という大きな日蓮上人座像の後ろに、さらに見上げるばかりの一塔 (南無妙法蓮華経の塔) 、両尊 (釈迦・多宝如来) 、四菩薩 (上行・無辺行・浄行・安立行菩薩) の7体は、すべて金色に輝いていましたが、格天井の彩色画と天女を彫刻した欄間と共に、昭和20 (1945) 年の戦災で焼失してしまいました。
門前に市指定の名木古木イチョウがあり、その根元に題目塔と八字髭の帝釈天が宝剣を持つ立像、帝釈天庚申塔があります。帝釈天はヒンドゥー教の神インドラが仏教に取り入れられ、梵天と共に仏教を守護するという天上界の主であります。
庚申信仰の主尊は帝釈天が多く、日蓮宗と関係したものが多いと言われていますが、檀家所有の柴又帝釈天の曼陀羅本尊から、この辺りからも柴又に参拝していた模様であります。
当寺は平成7 (1995) 年、山門・庫裏を新築、併せて境内などを整備し、寺観を一新しました。なかでも総ケヤキ造りの山門はひときわ目立つ荘厳なつくりであります。
[その他感想]
このお寺を見つけたのは、横浜市歴史博物館が2019年にした企画展『“道灌”以後の戦国争乱-横浜・上原家文書にみる中世』の図録を求めたところ、すでに売り切れで、横浜市歴史博物館か市内の図書館にある閲覧用の図録を見るかコピーしないといけないという事で、菊名まで行った時に、ついでに御朱印集めをしようと周辺の寺社を探した時に見つけたものとなります。
やはり法隆寺の名前に驚いたのですが、帰宅してwikiなどを見ると北海道や福井県、長野県、岐阜県…と北から順に本州のみならず四国や九州にも法隆寺はあるそうです。
この夏も緊急事態宣言が続き、都道府県を跨いだ外出の制限が続きます。
もし、奈良への旅行が出来なかった皆様は、この『蓮福山 法隆寺』をはじめ、地元の県内に法隆寺があればご参拝されてはいかがでしょうか。
寺務所の方も感じが良いですよ。