香宗我部城跡 / 香宗城跡
住所 | Kochi, Konan, Noichicho Doi, 1543 | ||||||||||||
時間 |
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カテゴリー | 史跡 | ||||||||||||
評価 | 3.8 4 件の口コミ | ||||||||||||
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香宗我部城跡 / 香宗城跡 件の口コミ
4岡林健一
17 四月 2019 2:48
甲斐源氏の一条家の末裔が城主をした
源九郎義経の母の常磐
が再婚した藤原家の流れをくむ一条家に武田家の人間が養子に入ったのが始まり
源姓一条家から
香宗我部家が分家し
香宗我部家から西山家 (西山家元々は、桓武平氏から養子をとった) が分家し
こんにちの香川県と高知県に子孫は、分布
香川県の西山家は、大平国祐が長曽我部家に合戦で敗北し
讃岐に落ちのびたのが始まり (讃岐には、国祐の一族が居た)
義経の親戚の武田家も一条家に養子に入った
土佐西山家当主は、付き従った
大平国祐の双子の弟の近藤国久
腹違いの弟の大平国秀 (讃岐大平家の当主の座を) 国祐に譲り一族としてサポートし
大平家分家の三野家当主の
讃岐の国の三野郡を領地とする三野栄久
栄久は、讃岐大平家の分家で大平栄久を名乗る事を大平家から認められていた
讃岐の国主の細川頼弘の前で御前試合した
さいは、
栄久は、本家当主の大平国祐に対して殺す気でかかったと言われる
その本気が細川頼弘の度肝を抜いたと言われる
戦国時代という時代がそうさせた
のだろう
主家だろうが本家だろうが何時
敵味方に成るかわからない予想かつかない時代