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佐土原城跡

住所 宮崎県宮崎市佐土原町上田島
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評価 3.3 7 件の口コミ
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佐土原城 二の丸跡 — 宮崎県宮崎市佐土原町上田島8227-1

佐土原城跡 件の口コミ

7
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袖師丸かいり
09 五月 2023 0:08

山城へ行くとあちこちで台風の影響か?、土砂崩れで登城出来ないところに遭遇します。
今回も大当たりで、本丸跡への登城は諦めかけましたが、迂回ルートがあり助かりました。
リトライする場合は1,000km以上の移動が必要だからです。

清水哲
18 四月 2023 5:38

続日本100名城No. 196
日本最南端の天守が残る城です

南北朝~室町前半、日向伊東氏の一族、田島氏がこの地に築城したといいます。その後、日向伊東氏本家が城を奪い佐土原と称しました。この城は天文六年 (1537) に焼失しましたが、後に伊東義祐が再建し、「伊東四八城」の中心となりました。

鈴木忠雄
15 十月 2022 12:31

薩摩・大隅・日向の旅も4日目、いよいよ佐土原城跡にやってきました。天昌寺跡に寄り道をして9時15分に佐土原歴史資料館(鶴松館)の駐車場へ着きました。
鶴松館は平日休みで、城の資料などは道路向かいの“城の駅”?道の駅のこと?「佐土原いろは館」で貰えることを知っていましたので、まずそちらを訪ねてみました。
しかし、最初出てきた販売店員の方は、平日なのに「城の資料は資料館の方で貰ってください」とつっけんどんに断られてしまいました。それでも、ぐっと耐えて周りを物色していたら、少し趣の変わった別の店員の方が出てきたので、もう一度訪ねたら、なんと!お城の資料を頂くことができました。ラッキー 更に、今は“大手道”は崖崩れで通行止めだから“中の道” から登った方が良いとアドバイスを受けました。これまた良い情報をもらったと嬉しくなりました。

早速、登城開始ですが、中の道から登城することは私の主義ではないので、大手道から行けるところまで行って引き返そうと、親切に教えてくれた女性の方には恐縮ですが、大手道から登り始めました。登り口は鶴松館の左を通って裏手にあります。雰囲気の好い大手道で“山城巡り心”が満たされました。そしてしばらく行くと、やはりこの先通行禁止の案内がありました。でも行けるところまで行こうと進んでいくと、崖崩れ現場にどういう訳か仮設道が造られていて、「通行にはご注意ください」との案内がありました。私は登山用の装備で来ていたので、注意して通行させて頂きました。尚、この道は健康で滑り辛い靴を履いていれば十分通れる道だと思います。ここを過ぎて本丸に辿り着くことができました。大手道登城主義を通して・・・ラッキーでした。

本丸をはじめ曲輪は、親切な女性の言う通り確かに草ぼうぼうでしたが、都於郡城とは違う趣の城で、山城らしい縄張りで、攻め難そうな城でした。伊東義祐がわざわざ歴代伊東氏の本拠城であった都於郡城からこの佐土原城へ居城を遷した理由は、もしや?と考えてしまいました。

さて、佐土原城は室町時代に伊東氏の庶流田嶋休祐(たじま きゅうすけ)によって築かれたそうです。その後伊東本家が乗っ取り、伊東氏四十八城の中心的な城となりました。1572(元亀3)年飯野の木崎原の戦いで伊東氏は島津氏に敗れその後急速に衰退します。そして最後に伊東義祐はこの佐土原城から豊後の大友氏(当時臼杵にいた宗麟)を頼って逃げました。島津義久は末弟の家久を佐土原城に入れ日向国の統治にあたらせました。家久は大友氏との高城川の戦い(耳川の戦い)では活躍しましたが、秀吉の九州征伐では秀長軍に敗れ、その後病死(毒殺説もあり)しました。後継の豊久は朝鮮出兵などで活躍しましたが、関ヶ原の戦いで義弘を守って討死し、戦後は家康から佐土原を没収されました。しかし、その後忠恒(後に家久と改名)や以久(ゆきひさ)が家康に働きかけた結果、佐土原は以久(垂水島津家)に与えられ、以久が垂水から佐土原に入城し、3万石の佐土原島津家が誕生しました。

さてさて長くなってしまいましたが、下城の道は、親切な女性に恐縮なのと、同じ道を通っても面白くないと思ったので、中の道から降りることにしました。しかし、これがまた大変、通り道に蜘蛛が巣をあちこちに張っていて、しばらくの間誰も通ったことのないような道でした。大手道の方がよっぽど通り易い道でした。

lo ho
27 八月 2022 4:41

大手筋からは登れませんでした。
天守台跡、本丸など順路に沿って行くことができますが、時期的に草繁茂してました。
通行禁止箇所が多く南側には行けませんでした。
制限が多く面白さはありませんでした。

えせ大佐
07 二月 2022 10:31

続日本百名城の196番
さどわらじょうと読む。伊東四十八城の一つ。江戸時代には佐土原藩の藩庁。
14世紀半ばごろに田島城として建てられたのが始まりで江戸時代には島津氏が治めている。
復元された二の丸御殿が見どころ。山については20分も有れば天守跡にたどり着ける。遺構として曲輪や本丸跡地があったのが分かる程度だが、赤色立体地図の看板が所々に立ててあり精力的な保護活動や観光案内の姿勢が感じ取れる。
名城スタンプは二の丸御殿(土日)かすぐそばの道の駅(営業時間であればいつでも)にて押せます!

マツザキカズヒロ
27 十一月 2021 23:24

伊東48城の1つで、伊東氏の本城です。伊東義祐が豊後へ落ち延びた後は島津氏が入城し、慶長5年 (1600年) の関ヶ原の戦いで城主 島津豊久が戦死すると徳川幕府は一旦収公した後改めて垂水の島津以久に佐土原3万石を与えています。
平成8年 (1996年) の発掘で天守台跡が見つかり、日本最南端の天守台跡と確認されています。
天守台跡はmapの航空写真でもはっきりと判ります。

Kenji
25 五月 2020 13:51

2020年2月20日来訪。平日で鶴松館は休館、しかも本丸までの登城路は倒木のため通行不可。残念。

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