宝来山古墳(垂仁天皇 菅原伏見東陵)
住所 | 奈良県奈良市五条1丁目6−12 尼ヶ辻町字西池1030 |
電話 | +81 744-22-3338 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | narashikanko.or.jp/spot/remain/suininryokofun |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 4.3 16 件の口コミ |
Mausoleum of Emperor Suinin | |
最寄りの枝 |
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宝来山古墳(垂仁天皇 菅原伏見東陵) 件の口コミ
16遙拝の折には、快晴で、とても気持ちの良い日でした。国家安泰の一助になればと手を合わせました。また、この日は日曜日で、田植えをしているところも少なくなく、のどかで、豊かな景色が拡がっていました。御陵の堀の水は、適宜に配水(貯水)にも使えるようになっているらしく、樋門があり、感動しました。下流に田があり、そこでも使っているのでしょう。流れは最終的に、秋篠川へ接続しているようです。
近鉄電車に乗っていると見える古墳です。
全長200メートル以上ある大きな古墳、古墳を囲む掘りには田道間守の倍塚が。
ちょこんとあって、いい感じです~
田道間守は橘を中国から持ち帰って、古代のお菓子にしたことから、お菓子の祖として祀られたそうです
実際の被葬者は明らかではないらしく、「菅原伏見東陵 (すがはらのふしみのひがしのみささぎ) 」として宮内庁により第11代垂仁天皇の陵として定められている。規模として全国第20位で、4世紀後半頃の築造とされている。墳形は先方後円墳で、前方部が南に向いており、墳丘は3段構造になっている。この宝来山古墳の場合、ヤマト王権の大王墓と目される他、それまでの古墳と異なり、周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例になる点が注目されている。
「垂仁天皇陵」(すいにんてんのうりょう)は奈良市郊外にあります 正式には「菅原伏見東陵」(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)と称し 長径230m近くもある秀麗な前方後円墳です 140歳で崩御したとされる第11代垂仁天皇は 実在したかも定かではなく この古墳の真の埋葬者もわかっていません 宮内庁が天皇陵に治定しているので 発掘調査が一切できないからです 私はこの古墳に特別な思い出があります 私は中学生の時 熱烈な「古墳少年」でした ちょうど修学旅行で唐招提寺に立ち寄りました 唐招提寺から徒歩で行けるところに垂仁天皇陵があることを知っていた私は 引率の先生に頼んで 団体行動から離脱 一人でこの古墳を訪ねたのです 大古墳を見るのはこの時が初めてでした 私はその感動を文章にし 学校の広報誌に掲載されたのを覚えています
4世紀後半の築造とされてます。
垂仁天皇の陵墓とされてますが、実際の被葬者は不明です。
垂仁天皇と言えば、サホ姫の物語や殉死による生贄を止めさせた事で有名な天皇ですが、
現代では非実在の人物とする見方が強いようです。
神話と歴史の狭間にいる天皇と言えるかもしれないです。
宝来山古墳(ほうらいさんこふん/ほうらいやまこふん、蓬莱山古墳)は、奈良県奈良市尼ヶ辻町(尼辻町)にある古墳。形状は前方後円墳。
この宝来山古墳は、宮内庁採集の埴輪により、古墳時代前期の4世紀後半頃の築造と推定される。奈良盆地北部での巨大古墳としては、佐紀陵山古墳(伝日葉酢媛命陵)に後続し、佐紀石塚山古墳(伝成務天皇陵)・五社神古墳(伝神功皇后陵)に先行する築造順序に位置づけられる。特に宝来山古墳の場合はヤマト王権の大王墓と目されるほか、それまでの古墳と異なり、周濠が同一水面で墳丘を一周する古墳としては初期事例になる点が注目される。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第11代垂仁天皇の陵に治定されている。
天皇陵の景観に於いて一番美しいと思える古墳である。兎に角水面が広く満々と水をたたえ効果的である。ただ築陵当初からではなく中世農業育成のため水資源確保のため大巾改造され田道間守の墓とされる陪塚も水の中、結果オーライなのか? 実際に垂仁天皇の亡くなった時期と古墳築造年とは100年程違うという。いちゃもんつけるのは学者にまかせて、まずは素直に楽しみたい。 又ここの古墳に於いても盗掘の被害にあい、江戸時代には犯人グループがつかまり、その取り調べ調書が現在古墳研究の参考になっているという。当然、犯人達は磔の極刑等になる。
それにしても垂仁天皇は狭穂姫を亡くした後も丹波道主王の娘達を妃に迎えている。その中でも日葉酢姫は景行天皇と倭姫命を産んでいる。初期大和政権は丹後勢力との結びつきが強い。ミステリー
形の美しさと威容では国内10指に入ると思う。
4世紀末の建造と見られ、5世紀を中心に本古墳から北東の丘陵地に作られていく佐紀盾列古墳群にさきがけ、柳本古墳群から王権の中枢地が変遷していく過程で造営された大古墳と見られる。
垂仁陵かどうかは天皇陵なので発掘調査出来ないが、間違いなく大王級の古墳であることは疑う余地は無いだろう。
小学生の頃、何度かここを起点に唐招提寺、薬師寺を巡ったものです。
久しぶりに行くと、やはり美しく、また歴史を感じます。
地上から見える古墳の景色としては、近畿でも屈指ではないかと思いますね。前方後円墳の形がはっきりとわかります。
天皇陵を評価するのは恐れ多いので、評価をせず3つにしておきます。
被葬者:第11代・垂仁天皇
実際の被葬者は明らかにされていませんが、第11代・垂仁天皇の陵と伝えられています。
築造は4世紀後半といわれ、古墳からは円筒埴輪・形象埴輪等が出土されています。
拝:2020/07/01
2020.02.02訪問
第11代垂仁天皇の治定墓。
227m (一説には240m) もの巨大な前方後円墳、4世紀後半のものとされています。
垂仁天皇陵だけがぽつりとこの地に。この時代の政権の中枢は纏向にあり、宮も纏向珠城宮。前後の天皇の陵墓は大和盆地の南東部に集中しているため、疑いがもたれています。
「菅原の御立野の中」、紀には「菅原伏見陵」とあり、これらをもってするなら当墓で間違いないのでしょうが、そもそもこの記述自体が間違っているかも。記紀編纂時にはすでに分からなくなっており、土師氏の由縁から当地と混同されてしまったという事の様です。
小学生の頃、ここを起点に唐招提寺、薬師寺を巡ったものです。
久しぶりに行くと、やはり美しく、また歴史を感じます。
天皇陵を評価するのは恐れ多いので、評価をせず3つにしておきます。
天皇陵の景観に於いて一番美しいと思える古墳である。兎に角水面が広く満々と水をたたえ効果的である。ただ築陵当初からではなく中世農業育成のため水資源確保のため大巾改造され田道間守の墓とされる陪塚も水の中、結果オーライなのか? 実際に垂仁天皇の亡くなった時期と古墳築造年とは100年程違うという。いちゃもんつけるのは学者にまかせて、まずは素直に楽しみたい。 又ここの古墳に於いても盗掘の被害にあい、江戸時代には犯人グループがつかまり、その取り調べ調書が現在古墳研究の参考になっているという。当然、犯人達は磔の極刑等になる。
天皇陵に口コミ評価なんて、やってもいいのかなぁ~と思いつつコメントさせて頂きます。 近くで見ても迫力があって素敵ですが、尼ヶ辻と西ノ京の間、近鉄電車の窓から、とても美しいアングルで全体を眺めることができます。 朝の車内は平日、学生で混雑していますので、通学時間を避けてお楽しみください。 冬は、雪が降ると木々は雪を冠り、更に美しい表情に変わります。 『天皇陵を愛でる』 ことができる町、尼ヶ辻でした。
大和西大寺駅を降り、秋篠川をしばらく南下し右折、近鉄尼ヶ辻駅を越えると目の前に巨大な前方後円墳が見える。
宝来山古墳、垂仁天皇陵だ。
日本書紀によれば享年は140歳と、これだけでその信憑性が疑われる垂仁だが、連綿と続いた天皇家の系譜のひとりだったのは間違いない。
陵墓前で休憩し、じっと緑の陵を眺めていると、なんと美しい古墳だろうと思う。
垂仁天皇(すいにんてんのう)と読む。 その方のお墓です。
浮島のようなこちらの陵は古墳として、その形がよくわかりやすいです。なぜなら、改めてみると周りが池だからです。近くで見てもわかりませんが、改めてGoolgeMapなどで見てみると、なんか見慣れた鍵穴の形をしてます。小学校の社会の授業で勉強した記憶とおりです。
前方後円墳、全長227mとのことです。
また、日本という国は天皇の統治されてきんだな、と体感できる場所です。なぜなら、入れません。ここまで歩いてきたのに、島へ続く懸け橋は見当たらず、池の周囲には柵が張り巡らされてます。至る所に、「宮内庁」と書いてあり、管理されてます。かつての天皇の墓だけに、当たり前かとも思える。
垂仁天皇の在位は、紀元前29年から西暦70年までの99年間。第11代天皇。同じ名前を2代、3代と継承したのか、日本書紀などにあるような140才を本当に生きたのかは興味がわく。古代人のほうが寿命が長かった可能性はゼロではないだろう。