JAPANRW.COM

法華寺

住所 奈良県奈良市法華寺町882
電話 +81 742-33-2261
サイト hokkejimonzeki.or.jp
カテゴリー 仏教寺院, 観光名所
評価 4.5 11 件の口コミ
Hokkeji Temple
近くの同様の会社
鬼子母尊神 — Kasuganochō, Nara, 630-8212
誕生寺 — 奈良県奈良市三棟町2
興善寺 — 奈良県奈良市十輪院畑町10
白毫寺 — 奈良県奈良市白毫寺町392

法華寺 件の口コミ

11
並び替え: 日付 最高評価 最低評価 最も参考になった
Akino
06 十月 2022 15:17

千葉から伊勢・奈良の寺社巡りの旅で2022/6/4に訪れました。
平城宮東院庭園裏の道を5分位歩いたところに法華寺があります。この寺は奈良時代、聖武天皇の后の光明皇后の発願により七堂伽藍が建立されました。741年聖武天皇の「国分寺・国分尼寺建立の詔」により東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺とされました。それ以来、皇室ゆかりの尼門跡寺院として1200余年にわたり営々と法灯を守り続けています。
拝観(拝観料800円)受付は赤門にあります。本堂にはご本尊の国宝十一面観音菩薩立像が祀られています。他には杜若が咲き誇る名勝庭園、客殿、慈光院、本堂正面の南大門、護摩堂、鐘楼堂、東書院、光月亭、東室、浴室などがあります。蒸し風呂の浴室(からふろ)は日本最古の風呂と言われています。伽藍の東側に植物が自然な形で植えられ、季節ごとに様々な花を咲かせる庭園の華楽園があります。伽藍や庭園は、尼寺にふさわしくいずれも手入れが行き届き、気持ちよく拝観できました。

吉野勝
12 四月 2022 10:42

フキノトウが顔を覗かせたというのを奈良新聞で見て、1月も終わろうという穏やかな一日、家から30分自転車こいで様子を見に行きました。
拝観料は決して安くないのですが、尼寺らしい静謐さが気持ちよく、また私好みのお庭があることから、季節ごとに年に数回お邪魔しています。

日曜というのに私以外に拝観者のいない本堂では、ご本尊の十一面観音さんは、いまは拝観できず、お姿をそっくり映したお前立ちのお像を拝ませてもらいました。

フキノトウは庭園の入り口に、それこそよろめいたら踏んでしまいそうなところで、ぽつりぽつりと黄緑色に、春を予感させてくれています。

ここのお庭は想像以上に広く、この時季は私好みの、冬の枯れ野の景色を見せてくれています。
しかし奥の枝垂れ梅は紅色の小さな粒を纏い、まもなく訪れる光あふれる季節に足を一歩踏み入れる準備を整えていたのでした。

seikaihakuko
25 二月 2022 0:37

平城京跡地からちょっと歩きます。途中で道案内が消えて迷いました。
観光寺としては可もなく不可もなく。館内アナウンスは池田昌子さんでしょうか。
中に無料の休憩所があります。

豊横井
14 二月 2022 7:25

平城京の近くに有りますが、場所が分かりずらくて訪ね訪ねてやっとたどり着きました。藤原不比等の娘 光明皇后が建立したお寺です。その時代の藤原氏の勢力が強い時でした。力と金が有ればなんでも出来るんだとつくづく思いました。余りメジャーでわ無いですが、頭の中で藤原一族を思い浮かべました。

ふかさわ葵
05 二月 2022 2:48

佐保路にある古式ゆかしいお寺で、全国の国分尼寺の総社と格式があります。境内はすっきりと美しく、本堂では十一面観音さまとご対面。今回は12月の訪問で紅葉やツバキなどでしたが、丁寧に管理された庭園では季節の花々が美しく咲き誇るのも見ものです。

黒須貞夫
13 一月 2022 16:06

11月6、7日に平城宮跡近くに泊まり、周辺のお寺巡りを計画。まずは有名な法華寺を訪れました。
秋の特別拝観 (特別御開帳、今年は11月15日まで) に合わせて行ったので、常設で私のお気に入りの維摩居士坐像 (国宝) のほか、御本尊の十一面観音菩薩立像 (国宝) や阿弥陀三尊及び童子画 (絹本著色、国宝) も間近に見られ、お天気も良く大満足の一日でした (^^)

中田道子
22 十二月 2021 4:31

駐車場から階段や坂もなく、静かでゆっくりお参りできました。
紅葉が綺麗でした。お花のお庭も腰をかける所がたくさんあって、のんびりできました。特別拝観の十一面観音菩薩立像も歴史を感じました。

Toshinori
12 十二月 2021 16:04

入場料千円 (全部を回れる料金) はちょっと高めですが、歴史的な価値を考えた場合は納得風呂体験が出来る様ですので機会があれば参加してみたいですね本堂の歴史物は近くで見る事が出来て、嬉しいですね〜。快晴の日に訪れましたが、青空に合う建物でした。8時30分より入場可能、駐車場スペースもあり、是非訪れてみて下さい。個人的には午前中が良いと思いますよ。

Hitomi
29 十一月 2021 21:08

皇室ゆかりの尼門跡寺院です。御本尊様は年3回御開帳されていますが、その日以外はご分身がおられます。静かなお寺で日本最古の浴室を外観より見学出来ます。奥にある光月亭は茅葺き屋根の趣のある無料休憩所。お茶やスポーツドリンクの給茶機があり、静かな休憩時間を過ごす事が出来ました。又、尼僧の手作り御守り犬はとても愛らしく、御守袋と共に受けました。芙蓉の花が綺麗でした。(10月9日)

石井秀樹
24 十一月 2021 6:22

神仏霊場巡礼の道奈良第九番のお寺です。光明皇后様開基の尼寺です。浴室 から風呂があり、薬草を利用した蒸し風呂で困窮者の福祉施設です (‐人‐) また境内にある光月亭でお茶をセルフで飲めるのでゆったりくつろげます。

奥村慎也
01 八月 2021 14:59

法華寺(ほっけじ)は、奈良県奈良市法華寺町にある光明宗の本山の寺院。奈良時代には日本の総国分尼寺とされた。山号はなし。本尊は十一面観音、開基は光明皇后である。元は真言律宗に属したが、1999年(平成11年)に同宗を離脱し、光明宗と称する。

藤原不比等の邸宅跡に造られた光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られる(門跡寺院とは、皇族、貴族の子女などが住職となる格式の高い寺院の称)。東大寺が全国の総国分寺であったのに対し、法華寺は総国分尼寺と位置づけられ、詳しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)といった。法華寺の地にはもと藤原不比等の邸宅があり、不比等の没後、娘の光明子、すなわち光明皇后がこれを相続して皇后宮とした。天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである(『続日本紀』)。この宮寺を「法華寺」と称したことが文書で確認できるのは、2年後の天平19年(747年)からである。
聖武天皇は天平13年(741年)2月14日、国分寺・国分尼寺建立の詔を発した(詔の日付は『類聚三代格』による)。法華寺は、この詔に基づいて建立整備された国分尼寺である。ただし、前述のように、法華寺の前身である皇后宮を宮寺としたのは4年後の天平17年(745年)5月のことであり、国分尼寺を意味する「法華寺」の寺号の使用が確認できるのは、天平19年(747年)正月の「法華寺政所牒」(正倉院文書)が初見である。国分寺・国分尼寺建立の詔が発せられてからの数年間、大和国の国分尼寺は存在しなかったのか、存在したとしたらどこにあったのかなど、創建経緯の細部については不明な点が多い。福山敏男は、天平16年(744年)6月8日付けの「金光明寺写経所文書」(正倉院文書)に「法花寺」という寺名が見えることに着目し、現・法華寺の創建以前に別の場所に「法花寺」すなわち国分尼寺が存在したこと、それは東大寺の前身寺院である金鐘寺に属していた阿弥陀堂であろうという説をとなえた。
法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。天平宝字6年(762年)の「作金堂所解(さくこんどうしょげ)」および「造金堂所解案」という文書を見ると、この時点で金堂の建立工事がまだ続いていたことがわかる。なお、法華寺造営のための役所であった造法華寺司は延暦元年(782年)に廃止されており、遅くともこの頃までには伽藍整備が完成していたと見られる。
発掘調査の結果、奈良時代の法華寺の境内は平城宮東宮の東に接し、北は一条条間路、南は二条条間路、東は東二坊大路、西は東一坊坊間路を境として、南北3町、東西2町に及んでいたことがわかった。創建当初の金堂や講堂は、現・法華寺南門のさらに南に位置し、金堂の南に中門、その南には東西両塔があったことがわかっている。さらに、境内南西部には天平宝字3年(759年)から翌年にかけて建立された阿弥陀浄土院があった。阿弥陀浄土院は、丈六の阿弥陀三尊像を本尊とし、『続日本紀』によれば、天平宝字5年(761年)、光明皇太后の一周忌がここで営まれている。
法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃していたことが当時の記録から伺える。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では東大寺、興福寺が炎上し、法華寺も被害を受けたという。
鎌倉時代に入り、東大寺大仏殿の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。現在も寺に残る鎌倉時代様式の木造仏頭は、この再興時の本尊廬舎那仏(るしゃなぶつ)の頭部であると推定されている。さらに、その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。
その後、明応8年(1499年)12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされると、永正3年(1506年)7月、再び攻め込んできた赤沢朝経によってまたも焼き討ちされた。そのうえ文禄5年(1596年)には慶長伏見地震にもあって、最終的には東塔以外の建物を失った。
現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)と翌年に豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。
江戸時代になり、後水尾天皇の養女・高慶尼が入寺して以来、当寺は尼門跡寺院となった。
宝永4年(1707年)、これまで兵火や地震の被害をまぬがれていた東塔が地震によって倒壊している。
法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、1999年(平成11年)に創建当時のように独立した寺に戻ることとなり、光明皇后にちなんで「光明宗」と名づけ離脱・独立した。
2010年(平成22年)5月6日 - 8日には光明皇后1250年大遠忌法要が実施された。

レビューを追加