太安萬侶の墓 / 太安万侶の墓
住所 | 奈良県奈良市此瀬町451 |
電話 | +81 742-34-5369 |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 4 8 件の口コミ |
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太安萬侶の墓 / 太安万侶の墓 件の口コミ
8 少しだけ路肩に車を停めて歩いて向かいました。
登口は新しい公共トイレが目印です。
向かうまでの上り坂は短いですがとても急です。
墓所の雰囲気は落ち着いていました。
所要があり奈良へ向かったときに、偶然太安万侶の墓を見つけたので立ち寄ってみた。山の斜面に設けられた円墳で、かなり急な坂を登らなくては辿り着けない。足に自信のない人は難易度が高い場所である。脚が不自由な人は無理だろう。
飛騨高山に古事記口伝の編纂者、稗田阿礼の出生地として、清見町楢谷という場所に大きな碑が建っています。一緒に古事記を編纂した太安万侶の円墳をたまたま訪れたことにより、1300年の時を経て、その歴史の一片にふれた気がしました。
かなり急な坂を登った所にあります。日本書紀や古事記の編纂にも関わった太安万侶の墓です。奈良時代の上級官人の墓が構造と遺物の出土状況等が明らかにされた例は稀だそうです。急坂を登りきれば眼下に茶畑一面が広がっています。
被葬者:太安萬侶
太安萬侶(おおのやすまろ)は飛鳥時代から奈良時代にかけての貴族で、古事記の編纂者と伝えられています。
和銅4年9月に第43代・元明天皇から史書を編纂するよう命じられ、和銅5年(712年)1月に古事記として天皇に献上しました。
昭和54年(1979)1月23日、当地の茶畑から太安萬侶の墓が発見されました。
墓からは火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土したそうで、墓誌によると太安萬侶は左京の四条四坊に居住したこと、位階と勲等は従四位下勲五等であったこと、養老7年7月6日(723年8月11日)に没した事なとが記載されています。
拝:2020/11/07
あまり目立たない標識なので、通り過ぎそうになった。公衆トイレの横に少しスペースがあるので、そこに駐車。あとは急な坂を必死に登ると5分くらいで到着。墓は、南向き斜面の茶畑の中にあり、なぜこんな辺鄙なところに?と思える。火葬されていて墓誌もある。中は木炭を敷き詰めた構造になっている。宇陀の文祢麻呂(ふみのねまろ)の墓とよく似ている。奈良時代の高級官吏がなぜ平城京から離れた場所に葬られたのか。両者とも埋葬場所はしばらく忘れ去られ、たまたまその地を耕作していた農夫が発見している。二人には共通点が多い。
車でないと行けない。
途中、狭い道なので 小さな車が便利。
駐車場はないけど、トイレの脇にスペースに車を止めて尋ねる。
大和茶畑を登っていったところにある。
道は整備されているので、坂はキツイけど、ゆっくり登っても5~7分くらいで着ける。
上から眺める茶畑も良い景観。
古事記編参という日本の歴史に欠かせぬ偉業を成し遂げた方・・・のわりには現世の扱いが良くないような、、、気づかず通り過ぎてしまうような扱いの場所です。もう少し顕彰するような扱いをして頂きたいものです。