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山田寺跡

住所 奈良県桜井市山田1258
時間 00:00-24:00
サイト city.sakurai.lg.jp
カテゴリー 史跡, 観光名所
評価 4.5 12 件の口コミ
Yamada-dera Temple Ruins, Nationally Designated Special Historic Site
最寄りの枝
吉備池廃寺跡 — Nara, Sakurai, Hashimoto, 51-16
メスリ山古墳 — 奈良県桜井市高田100
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山田寺跡 件の口コミ

12
並び替え: 日付 最高評価 最低評価 最も参考になった
理佳宮崎
17 七月 2023 17:41

2026年の世界遺産登録に向けて
世界に誇る場所だと思います。

集落の中に
突然広がる山田寺跡
当時のことをイメージするだけで
タイムスリップします。

山本佳一
14 十月 2021 21:56

アクセス
JR桜井線 桜井駅︰奈良交通バス
. (岡寺前行き) 山田寺跡 下車すぐ
近鉄南大阪線 橿原神宮前駅東口
. レンタサイクル (2店舗)
車︰県道206号〜県道15号

山田寺跡 概要
641 (舒明13) 年、蘇我倉山田石川麻呂
. の発願による寺院です。
金堂、廻廊の建立後の649 (大化5) 年、
. 中大兄皇子から謀反の疑いをかけられ
. 造営中の寺で自害します。
石川麻呂の失脚により造営は一時中断
. しますが、673 (天武2) 年頃に再開され、
. 685 (天武14) 年に山田寺は完成します。
石川麻呂の36回目の命日に、天武天皇
. による本尊薬師如来像の開眼供養が行
. われたと言われています。
平安後期より、山田寺は衰退が始まり
. ますが、明治期の愚行廃仏毀釈により
. 廃寺となりました。
現在、かつての講堂跡に観音堂が建つ
. のみです。

山田寺データ
所在地 ︰桜井市山田1258
別称  ︰浄土寺、華厳寺
山号  ︰大化山
竣工  ︰663 (天智2) 年
完成  ︰685 (天武14) 年
開基  ︰蘇我倉山田石川麻呂
再興  ︰1892 (明治25) 年
寺域  ︰東西約118m、南北約185m
伽藍配置︰四天王寺様式に近い伽藍配置
発掘調査︰1976年~2007年が
文化財 ︰
. 国宝指定 銅造仏頭 (旧山田寺講堂本尊)
. 重文指定  出土品1133点
史跡指定︰1921 (大正10) 年
.      1952 (昭和27) 年 国特別史跡
.      1982 (昭和57) 年 追加指定

飛鳥資料館
飛鳥資料館にて、山田寺跡関連展示室
. が設けられています (第二展示室) 。
展示室に山田寺跡で発掘された東回廊
. を復元展示されています。
出土品の展示

おおうちゆきお
02 六月 2021 21:55

特別史跡山田寺跡は蘇我倉山田石川麻呂の発願により7世紀半ばに建て始められ、石川麻呂の自害649年の後に40年かかり完成、瓦葺きの五重塔や金堂が建つていた飛鳥時代のお寺です。明治時代初期に廃寺になったそうです。飛鳥資料館には三軒分の東回廊が復元されています。
天気の良い日には子供さんを連れて遊びに行って見て下さい。

西村靖
01 三月 2021 18:44

歴史的には脇役の蘇我倉山田石川麻呂の発願した寺であり石川麻呂の終焉の地。
最期を思うと切なくもなります。なおここから出土した連子窓は保存状態もよく
すぐ近くの飛鳥資料館に現物が展示されています

御船久人
02 二月 2021 17:01

山田寺はかなり荒れていて、小さな観音堂があるだけです。山田寺跡は広大な芝生広場になっています。車が10台は停められる駐車場もありますので、家族で遊びに来るのもいいかも。それにしても山田寺の仏頭は興福寺から取り返せないのでしょうか。蘇我氏が少し可愛そう。

呑気な頼
28 六月 2020 22:18

山田寺跡『白藤の花』・・
今日の磐余の里は暖かな一日でした。そんな中、磐余の道を通ったので山田寺跡に一寸寄り道。この跡地には白藤棚が設けられ、子ども連れの家族の皆さんが数組、車で来られてました。山田寺跡は大和王権の宮殿があった磐余 (いわれ) と飛鳥を結ぶ古道、その道沿いに位置します。この寺院は大化の改新に天智天皇側に味方し、同族の蘇我氏を滅ぼした蘇我倉山田石川麻呂 (そがのくらのやまだのいしかわまろ) の発願により、舒明天皇13年 (641年) に建て始められました。石川麻呂は入鹿殺害の政変に加わり右大臣に任ぜられましたが、しかし大化5年 (649年) に謀反の疑いをかけられ、この山田寺で一族と共に自害。その後、疑いが晴れたことから、皇室の援助もあり山田寺が完成。中世以降は衰微し、明治時代初期の廃仏毀釈の際に廃寺となりましたが、明治25年 (1892年) に小寺院として再興されています。大化の改新の立役者の一人、蘇我倉山田石川麻呂ですが、一族共に無念の自害をした悲しい場所でも有ります。それを傷むように、地元の皆さんが白藤棚を設けて供養されてるかもですね。

Noriyasu
02 三月 2020 21:49

「磐余・山田の道/万葉の道」巻八の二の十三 桜井市大字山田
Yamada town, Sakurai city, Nara prefecture.
山田寺跡(やまだでら あと)Historic Site, Yamadadera Temple

"A representative temple of the ASUKA period, Yamadadera-temple was established under the patronage of the Minister of the Right, Soga no Kurayamada no Ishikawamaro. It is recorded that construction began in 641, and while the main hall was completed two years later, work was interrrupted by Ishikawamaro's suicide due to political strife in 649.
Construction resumed full-scale afterwards, with the pagoda* completed in 676, and an eye-opening ceremony held in 685 for the main Buddha image, the head of which is now kept in Kofukuji temple in NARA.

Excavations conducted from 1976 have revealed that the temple precinct was 118 meters east-west and 185 meters north-south axis, and that the principal sector containing the pagoda and main hall was enclosed by a cloister. The cloister's eastern corridor**, uncovered in the precise condition in which it had collapsed, was an extremely important discovery for the study of ASUKA period architecture. "

Informed by Agency for Cultural Affairs, Government of Japan

pagoda* ; unknown as three stories or five
eastern corridor** ; saved and exibited in ASUKA HISTORICAL MUSEUM

7世紀の主要道路だった「山田の道」は、おおよそ桜井市谷と明日香村を繋いでいた古道です。

万葉集の巻十三には

百足 (ももた) らず 山田の道を 浮雲の 愛 (うつく) し妻と 語らはず 別れし来れば 速川の 行きも知らず 衣手の かへりも知らず 馬じもの 立ちてつまづき せむすべの.
巻十三-3276 相聞歌

波雲のように美しい愛しい妻と契りも交わさずに別れてきたので、この山田の道を行くともつかず帰るともつかず、馬のように立ちながらつまづいて. など山田の緩く長い坂道を表現した歌が収載されています。山田寺に続くこの長い道は、途中でふと後ろを振り返ったりしてしまいそうな後ろ髪ひかれる迷いの道であったとされています。

そんな坂道を登りつめて旧街道の『磐余道』にはいり下ると静まり返った街道に”あれ?時代が30年ほどスリップしたか?”と、ともすれば勘違いしたかも知れない感覚に陥りながら、「山田公民館」「夫婦で営む護摩木造り工場」「庚申さん」などに迎えられてやがて山田寺跡に辿り着きます。
『山田寺跡』は、「山田の道」も含め、繋がれた「磐余」の静寂を共有する独特の「沈黙」とも言える世界観の中に存在するような気がします。それはきっと山田寺で果てた蘇我倉山田石川麻呂の最後に求めた安らぎが連綿と流れていることを我々が識っているからこそだとも云えます。

Sato
18 一月 2020 1:48

飛鳥の東の山地の突端に平削された地に建立された。南北に伽藍跡が並ぶ。乙巳の変の功労者、蘇我倉麻呂(蘇我倉山田石川麻呂)が建立したが、謀反の罪により中大兄の派遣した兵士に攻められ、麻呂はこの地で自害する。
遠く雷丘が見え、かつては小墾田宮が望めただろう。また、目の前の神社丘も寺内の一部であったとすれば甘橿丘も望める。

yu yu
02 一月 2019 16:05

蘇我倉山田石川麻呂の発願で着工し、彼が自害(649年)した後に完成したのだそうです。興福寺の国宝館にある「仏頭」は、このお寺の御本尊だった様です。しかし、法隆寺よりも古い回廊遺構が発掘されているのだそうです。

相川裕美
28 七月 2018 20:29

蘇我倉山田石川麻呂の氏寺。
飛鳥資料館にここから発掘された東回廊の部材が展示されています。
また、興福寺の仏頭は元は山田寺の本尊でした。
訪問中観光客は私ひとり、当時を偲ぶ気持ちを存分に味わいました。

Hitoshi
08 三月 2018 20:15

飛鳥全体に言える事ですが7世紀のこの地域に、これほど成熟して高度な文明ががあった事に驚きを感じます。高度な文明がであれば血なまぐさいドロドロ権力抗争も必然なのかもしれませんが、石川麻呂も自ら建てた山田寺金堂前の礼拝台で自刃したのでしょうか?
石川麻呂がこの地に寺を建立したのは分かるような気がします。山間を抜けて遠くに金剛山、五重の塔からは甘樫丘を含めて飛鳥の街並みが見渡せたのかもしれません?

チェチェンタロウ
11 七月 2017 15:25

明日香村の「川原寺」にも言えることだが、「山田」は名前が軽すぎる。
もう少し重厚な名前だったら、イメージが違ってくるだろう。
・・・と思うぐらい、山田寺の跡地は広大で、さぞかし往時は立派な寺院だったであろう。

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