武烈天皇傍丘磐坏丘北陵
住所 | 奈良県香芝市今泉617-3 |
電話 | +81 744-22-3338 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.kunaicho.go.jp/ryobo/guide/025/index.html |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 3.7 6 件の口コミ |
Mausoleum of Emperor Buretsu | |
最寄りの枝 孝霊天皇片丘馬坂陵 — 奈良県北葛城郡王寺町本町3丁目 ミサンザイ古墳(神武天皇畝傍山東北陵) — 奈良県橿原市大久保町 懿徳天皇 畝傍山南繊沙渓上陵 — 奈良県橿原市西池尻町401 孝昭天皇 掖上博多山上陵 — 奈良県御所市三室378 |
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武烈天皇傍丘磐坏丘北陵 件の口コミ
6 天皇陵で宮内庁により管理されています。
武烈天皇は「日本書紀」によると暴君だったと伝わる第25代天皇でその在位期間は5世紀末頃と言われています。
しかし「古事記」では暴君だったという記述はない為その真偽は不明となっています。
古事記では「御陵は片岡の石坏の岡の上」と記載がありこの辺りの地名片岡から推察してここが宮内庁比定地となっています。
但し明治22年に治定されましたがそれまでは当地を武烈天皇陵とした形跡はなくずっと所在不明となっていました。
近くの志都美神社の森と御陵の森は一体となっていて、天皇陵の形はわからなくなっていますが北部より南部が高い瓢箪の形をした自然丘陵となっています。
第25代 武烈天皇の陵墓として明治時代に治定されたそうなのですが、全体像がわからない…拝礼所はきちんと整備されているのですが、なんとなく空濠が取って付けた感。犬の散歩されている方が、裏から堤?を歩いてくるし…。裏に回れそうだったので、拝礼所北側からまわって見ましたが、失礼かもしれませんが、陵墓、古墳と言う感じがしませんでした。築造年代がわかっている狐井城山古墳が真陵ではないか?との説もあるようです。結局、謎なんですねぇ…
被葬者:第25代・武烈天皇
第25代・武烈天皇は古事記と日本書紀との記載に大きな違いがあり、日本書紀では武烈天皇は悪逆非道な行いをしていたと伝えられています。
(古事記ではそのような記載は一切なし)
武烈天皇には子がおらず、武烈天皇8年12月8日に後嗣なく崩御し、仁徳天皇からの皇統は途絶えることになりました。
武烈という名から、名のある武将であったとお見受けしました。
拝:2020/07/13
古事記によると、
“御陵は片岡の石坏の岡にあります。天皇がお隱れになつて、天下を治むべき王子がありませんので、ホムダの天皇 (応神天皇)の五世の孫、ヲホド(繼體天皇)の命を近江の國から上らしめて、タシラガの命と結婚をおさせ申して、天下をお授け申しました。”
抜粋: 古事記 現代語譯古事記
稗田の阿禮、太の安萬侶 武田祐吉訳
父・雄略天皇が兄や従弟を次々殺したツケが回ってきて、武烈天皇で皇統断裂の危機が続くのだけど日本書紀の記述もどこまで本当かわからない。自然丘陵のような武烈天皇陵も又ここが正しいのか疑問で狐井城山古墳だとする説もある。