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内山永久寺跡

住所 奈良県天理市杣之内町
電話 +81 743-65-5720
時間 00:00-24:00
サイト www.city.tenri.nara.jp/kurashi/kyouiku/bunkazai/1395982437751.html
カテゴリー 史跡
評価 3.5 14 件の口コミ
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内山永久寺跡 件の口コミ

14
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宮崎修一
31 五月 2023 19:30

平安時代末期の永久2年 (1114年) に鳥羽天皇の勅願により創建された寺ですが、現在は、本堂池だけが残っている状態です。
場所は、石上神宮から桜井、柳本方面に約15分 (約800m) 歩いた所です。
休憩できる小さな場所があります。

初花さなえ
25 四月 2023 21:22

「山の辺の道」の立ち寄り史跡で石上神宮から最初の観光スポットです。
幕末〜明治始めの廃仏毀釈により廃寺となった大和を代表する大寺院跡だそうです。神宮に移築された割拝殿が国宝だったりするので何かしら期待しますが特に何もなく果樹園やビニールハウスが並ぶ所で唯一寺院らしい池も冷静に見ると普通の溜池です。

平坦に整地された院や坊の区画や門跡の土塁などは良く残っています。休憩所(ポケットパーク)付近の平坦地が割拝殿などがあった中心部ですが西の日光と並び称された寺院とは到底思えない狭さです。

芭蕉が若かりし頃訪れて桜の美しさを詠んだ句の石碑が立っていました。当時の古木は無いようで池の土止めの桜が当時の面影を伝えてくれています。

山の辺の道から外れますが池から西に向かって伸びる農道の途中には歴代住職の供養塔が並んでおり冬時期には結構見通しが良くて寺跡全体を見渡した感じがします。そのまま進むと都祁山口神社へ出られますが国道25号線で分断されています。

石上神宮からだと次は天理観光農園〜夜都伎神社へと進むのも良いのですが新たにできた国道25号線沿いの「なら歴史芸術文化村 」が近くなので「石上神宮〜なら歴史芸術文化村〜夜都伎神社」と見学しないのもオススメです。お土産店もあるので帰りに寄りたい場所ではあります。朝夕と運行時間が限られますが天理駅への直行バスや予約制のバスもあり便利です。

車で通れる道はありますが駐車場は無いです。無料で駐車できる道の駅(文化村)などが数カ所ありますのでそこからの徒歩です。石上神宮や文化村などに駐車する方も見かけますが山の辺の道(杣之内)駐車場が観光用の無料駐車場です。

永久寺は天理教の教祖とも縁のある寺院で廃仏毀釈で廃寺になった当寺院と明治時代の宗教法人化の流れの中で地域一帯を宗教都市化した新興宗教との歴史を知るには良い所です。

上田精司
14 二月 2022 10:32

廃仏毀釈により、国宝級の至宝が多数破壊されあるいは散逸したという。以後「神」に仕えるその証しとして、本尊の文珠菩薩を薪割りで「一撃を喰はした」僧までいたらしい。彼には還俗後の自らの保身しかなかった当時の住持がそれらを守る気概と厚い信心があれば、大御輪寺の十一面観音や地蔵菩薩の如く他寺に移されながらも、ここの仏たちは生き残ることが出来たかもしれない。
少し奥にある高台から大伽藍があった場所を望み、ちと感傷に浸る。

大学康宏
10 二月 2022 15:41

かつて「西の日光」とも言われたそうですが、今は文字通り「永久」に消滅した大寺院の跡です。
寺の跡らしきものは、池ぐらいでしょうか。その他は私有地なのでよくわりません。
車で行けますが、結構道は細いです。ポケットパークの前の路肩に車1台ぐらいは駐車できるスペースはあります。但し。引き返す場合は何回か切り返しを行う必要があります(運転が不安な方は徒歩で行くのが無難です)。

シンディパンダー
01 一月 2021 20:34

明治初期に廃仏毀釈により廃寺となった大寺院跡です。
往時をしのぶ遺構は池と供養塔のみだそうです。
寺領であった場所のほとんどが畑となっているようで、訪問時にあまり探さなかったこともあり、供養塔がどこにあるかわかりませんでした。

池の入口には比較的最近建立されたとおぼしき立派な芭蕉碑があります。
芭蕉が永久寺を訪れた際は、桜が満開だったようです。

夕方訪問したせいもあってか、人もおらず、ものすごく寂しい気分になりましたが、諸行無常を感じるに足る場所に赴くのもたまにはよいかもしれません。

仏像の写真は現在東京国立博物館所蔵で、元々は永久寺に安置されていた愛染明王坐像です。
こちらの仏様は博物館での出陳時に写真撮影可能でしたので、撮影・掲載をさせていただいている次第です。

呑気な頼
18 十二月 2020 13:08

内山永久寺『馬魚伝説』・・
南北朝時代、後醍醐天皇 (ごだいごてんのう) が吉野に御潜幸になる途中、内山永久寺 (うちやまえいきゅうじ) の萱御所 (かやのごしょ) に入御しました。その時、天皇のあとを追って赤松円心 (あかまつえんしん) 等の軍勢も神宮近くに到着し、軍馬がしきりに嘶(いなな)きました。天皇の御乗馬がこれに応じて嘶こうとしたため、天皇の従者は円心等にさとられるのを憂い、御乗馬の首を斬って本堂前の池に投じました。その後、本堂池に草を食べる魚が住みつくようになり、人々はこれは御乗馬の首が魚になったのだと考え「馬魚」とよぶようになったと伝えられています。

古都すずめ
17 十二月 2020 4:50

廃仏毀釈の時期に廃寺となった大寺院跡です。当時としても法隆寺規模の大寺院が廃寺となる事は異例で奇跡的に残った石上神社の国宝の割拝殿などを観るとただただ残念でなりません。興福寺との関係が深く周辺地域とは疎遠だったからだとも言われていますが定かではありません。この時期、興福寺も解体されて鹿のエサ場の公園に変貌してますので当時としては神道の聖地的な地域にある大寺院よりは石上神宮へ移る事が賢明な判断だったのかな?などと思い浮かべながら山の辺の道を散歩していました。庭園の池が溜め池だったり御堂があったであろう平地がそのまま畑だったりと独特の景観です。

佐野隆久
12 十二月 2020 23:47

芭蕉の句があるだけです。
江戸期までは,西の日光といわれる暗い栄えた大伽藍寺院でした。
しかし,
明治維新後の廃仏毀釈で,全てなくなりました。伽藍の基礎まで持ち去られました。
ポケットパークがあるので,山辺の道の休憩場所になります。
北へ行くと石上神宮
南へ行くと山越えをして,天理観光農園です。

安部克哉
24 十一月 2020 22:48

石上神宮から、山辺の道を10分程度歩いたところの高台に跡地があります。
明治の廃仏毀釈で廃寺となったそうです。
跡地には、ありし日の境内を描いた看板や、由緒書があるのみで、なにも残っていません。
ただ石上神宮には、内山永久寺の山内にあった、住吉社の拝殿が移築されていて、現在は国宝となっているので、お見逃しなく

Isamu
10 三月 2020 0:44

明治の廃仏毀釈で、廃寺になりました。今は、池が残っています。
鎮守社の住吉社の拝殿が石上神宮に移築されて摂社の出雲建雄神社拝殿として国宝となっている。他の堂塔、仏像など、残っていれば相当なものだったと思われます。

松本克敏
17 十二月 2018 6:34

かつては大伽藍を誇ったといわれる。明治初期の廃仏毀釈で、徹底的な破壊と略奪がなされ、往時を偲ぶよすがは何もない。当時、仏像を鉈で叩き割る僧までいたらしい。
興福寺の僧が、春日大社の神職になったのと同じように、永久寺の僧も、石上神宮の神職となったらしい。ここだけでなく、中世から大寺は、俗世以上に栄達の場であった。廃仏毀釈は、「禄を失う恐怖」であったのか…。

yu yu
27 一月 2018 20:20

有数の大寺院であったにも拘らず、明治の廃仏毀釈運動で廃寺となった非常に残念なお寺です。
(Wikipediaより)
東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受ける大寺であり、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼び習わされた。

田中皓史
20 九月 2017 21:04

石上神宮の蓮池を沿って下り左に進路をとって約二十分位で二又に芭蕉の俳句の碑がありそこを左に池に沿って歩けば内山永久寺の碑と伽藍の大きさを説明する表示板があります。それだけで後はありません。ただこの辺りは梅の木て柿の木があり特に秋には大振りの柿の実がなりみごとな風景です。それと百米さきに小高いところに藤棚があり休憩所になっています。この休憩所から天理市街もみえますが、休憩所の階段の手前に老木の椚があるのですが最近腰が曲がってきて今にも穴の空いた付近から折れそうでハラハラします。

西谷廣
24 八月 2017 22:44

天理市〔内山永久寺跡〕に芭蕉句碑が建っている。
 うち山や外様知らすの花盛り 宗房 
平成2年(1990)天理のライオンズクラブが建立した碑で、宗房というのは芭蕉のこと。碑の文字は芭蕉の真蹟。

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