龍象寺
住所 | 奈良県奈良市柴屋町177 帯解安産地蔵尊 |
電話 | +81 742-61-6720 |
サイト | www.eonet.ne.jp/~ryuzouji |
カテゴリー | 仏教寺院 |
評価 | 3.4 7 件の口コミ |
Ryuzoji Temple | |
最寄りの枝 称名寺 — 奈良県奈良市菖蒲池町7 |
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龍象寺 件の口コミ
7 あなたの前世がこうだから願いが叶わない。
なので祈祷しなさいと言われ祈祷しましたが
全く叶わず。
ここでの御祈祷料の半額以下のご祈祷料で他の
寺社でお願いしたら叶いました。そこの住職は
前世を見て下さいましたが問題なかったと言われました。
行基が730年に地蔵菩薩をご本尊として開創した高野山真言宗の寺院で、山号は宝寿山。当寺から西の広大寺池南畔にあったとされる広大寺の奥の院とされているが、このことで近くにある「帯解寺の奥の院」と誤解されることがあるようだ。古い子守唄に「ここはおびとけ おびをたばるは 子安の地蔵 奥の院」と唄われたそうで、この辺りは昔から安産・子授けの霊地だったようだ。本堂の天井には狩野春甫の天井画『帯解龍』が残されている。
大和北部八十八ヶ所霊場第67番札所となっている。
18/02/11、参拝したが、お寺の方が居られず、天井画はまたの機会となった。
剣豪としてお馴染み「柳生十兵衛」はここ龍象寺の在る奈良市帯解で道場を開いて (このお寺辺りに伝柳生十兵衛之墓もあるそうです) 、日本三大仇討ちの一つ「決戦・鍵屋の辻」で知られる荒木又右衛門に新陰流の免許皆伝を許したとされています。
しかし、十兵衛が奈良に居たのは20歳から31歳迄 (1627年~1638年) で、鍵屋の辻に関わる一連の出来事は1630年~1634年に発生しているからもっともらしいのですが、武芸において衆に比して優れていたとは言えこの間の十兵衛は未だ修行の身で、父・宗矩から印可を許されたのが1638年に江戸に戻ってからですから、郡山藩剣術指南役を務めていた七歳歳上の又右衛門と共に、この辺りにあった道場で剣術修行に汗を流したとするのが正解かも知れません。
剣豪としてお馴染み「柳生十兵衛」はここ龍象寺の在る奈良市帯解で道場を開いて (このお寺辺りに伝柳生十兵衛之墓もあるそうです) 、日本三大仇討ちの一つ「決戦・鍵屋の辻」で知られる荒木又右衛門に新陰流の免許皆伝を許したとされています。
しかし、十兵衛が奈良に居たのは20歳から31歳迄 (1627年~1638年) で、鍵屋の辻に関わる一連の出来事は1630年~1634年に発生しているからもっともらしいのですが、武芸において衆に比して優れていたとは言えこの間の十兵衛は未だ修行の身で、父・宗矩から印可を許されたのが1638年に江戸に戻ってからですから、郡山藩剣術指南役を務めていた七歳歳上の又右衛門と共に、この辺りにあった道場で剣術修行に汗を流したとするのが正解かも知れません。
龍象寺は、通称、帯解本町の中心にあり、昔から安産・子授けの霊刹として有名である。寺紋は十六枚の菊紋にて、古来から宮中と深い関係ある。寺の格式と同じく、帯解子安地蔵の徳も高い。また、当寺はこの近くに建てられた広大 (光台) 寺の奥の院であり、通称 奥の院と呼ばれている。龍象寺の西側に周囲3km程の大きな溜池があり、広大寺池と言う。
当寺の山門は藤堂藩古市陣屋から移され、帯解小学校の最初の校門となり、昭和三十年十月当寺に移転、文化財級として保存されている。寺宝として光明皇后御自筆の経巻があったが、目下所在不明。
大和北部八十八ケ所霊場 第67番龍象寺。
柳生十兵衛と伝える墓、当寺のかっての境内地 (現在は隣の野田家の土地) に、柳生十兵衛と伝える墓があります。墓形は五輪塔です。
幕末の国学者藤木良弼の石碑が境内に在ります。