信濃川大河津資料館
住所 | 新潟県燕市五千石 | ||||||||||||
電話 | +81 256-97-2195 | ||||||||||||
時間 |
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サイト | www.hrr.mlit.go.jp/shinano/ohkouzu | ||||||||||||
カテゴリー | 地域歴史博物館, 観光名所 | ||||||||||||
評価 | 4.1 7 件の口コミ | ||||||||||||
ShinanoRiver Ohkouzu Museum | |||||||||||||
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信濃川大河津資料館 件の口コミ
7 建物の奥、裏側?に来館者用駐車スペースが3~4台分ありました。
訪問時、何やら式典が行われており
入館を止めてしまった為、中の様子が分からず評価は普通としましたが、
展望室もあるらしく
また機会があったら訪問したいと思います。
新潟を新潟たらしめたモノは何か?と問われれば、喜谷さんは迷うこと無く『大河津分水』と答える。また喜谷が訳のわからんコトを言い出したと思わず、少しお付き合い下さい。
1730年に新発田藩が行った阿賀野川の流路変更に着想を得て構想200年、13年の歳月と延べ1,000万人の労働力、そして100名の尊い犠牲のもとに大河津分水路が通水に至って今年で100年。越後平野を一変させた大事業については、信濃川と大河津分水路の分岐点にある『信濃川大河津資料館』で学ぶことができる。資料館によると信濃川は大河津分水路が出来るまで3年に一度は大規模な氾濫を繰り返していた。1896年の堤防決壊『横田切れ』の被害は凄まじく、泥水は60km下流の新潟市中心部に到達。被災地では年末になっても水が引かなかったらしい。
そんな越後平野の水田は一年中水を抜く事が出来ず堆肥を加えることが出来ない『湛水田』と呼ばれる事実上の沼。それも湖沼地帯ばかりで大した作付けも出来なかった由。今でこそ魚沼産コシヒカリを筆頭に美味い米が山ほど獲れる新潟県だが、当時は『鳥も食べない鳥またぎ米』と呼ばれるほど不味い米だった由。また一年中湿気があるためチフスやツツガムシ病などの疫病が流行る地域だったらしく、長岡城下から新潟市中心部までの平野部は『不毛地帯』となっていた。そんな不毛地帯を大河津分水はどう日本最大の穀倉地帯に変えたのか?分水路が出来た事で洪水自体が激減。これにより長岡城下から新潟市中心部までの地域の水位を下げる事に成功。更に新田開発や湛水田から乾田への改良を推し進め、単位あたりの収穫量を昭和40年代には倍増させるに至る。また乾田化で肥料の投入も増やせた事が米の味も改良させた。もし大河津分水が出来ていなかったら、越後平野の景色は一体どんな世界になっていたのだろうか?
余談だが、大河津分水が出来た事で新潟市中心部を流れる信濃川の川幅を半分にする事が出来た。そこで生まれた土地に弊社の初代新潟工場が建てられた。もし大河津分水が出来ていなかったら、弊社の新潟進出も喜谷さんの新潟進出も無かったかも知れない。そう考えると、大河津分水は越後平野のみならず、遠く関東で生まれた喜谷さんの人生をも変えた土木事業と言っても過言ではない…かな?
そんな大河津分水路は信濃川との分岐点から河口まで約10km。これにより信濃川は日本海まで約50kmショートカットする事が出来た。しかし河口の直前には標高100mを越える弥彦山の裾が立ちはだかる。これが構想以来分水路の実現を拒んできた。この山を切り崩したのが、欧州から輸入した様々な蒸気機関。それでも数多の犠牲者を出す難工事だった由。『東洋のパナマ運河』とまで言われた工事の詳細については、是非とも資料館を実際に訪問して確認して頂きたい。
通水して100年の大河津分水は信濃川本流・分水路の稼動堰を2011年にリニューアル。また分岐点よりも狭くなっている河口付近も2015年より2032年の完成を目指して大改修を行っている。越後平野の守護神・大河津分水は如何なる大雨にも耐えるべく、まだ進化を続けている。
人の血と汗が築き上げた現在の越後平野。その根幹である大河津分水について、新潟に来られる機会があれば、是非一度は訪れて頂きたい… (´・_・`) ノ
彌彦に行く途中に寄りましたが、無料で内外一時間かけて十分見て回れる良い所でした。2022年で100周年だそうで、手作りの栞や通水石ガチャ (¥100) などもありました。
ここから下流域に住んでいる人は分水の恩恵を享受しているので一度は見ておくべき施設だと思います。
丁度小学生低学年が見学に来ていて走り回ってるだけだったので、高学年のほうがよさげかな。。
分水建設当時は左岸の干潟を埋め立てたらしいですが、現在行われている河口の拡幅工事では右岸の農地に捨てているみたいです。その工事に関連する資料館もあるようです。
窓口の初老の男性は来客に丁寧に応対されていて気持ちよかったです。入口付近やカウンターに物がいっぱい置いてありましたがちょっと雑然とした感じを受けました。感想ノートやアンケートの類がなかったのが残念です。展示は比較的細かく説明されていてよかったです、特に江戸時代あたりの人々の生活の説明。ダンプで運んだ土砂がどこに行ったのか、通水以降収穫量が3倍に増えたのは農業技術の進歩であり分水路の影響で増えたのは収穫量ではなく収穫率ではないか、分水路ができて信濃川本流が安定したのになぜ本流の川幅や土手などを大きくしなかったのかまた直線化(関東や名古屋周辺の川はかなり大きい)、など来訪して疑問が残った。青山宮本両偉人は私の近所にある岩淵水門にも関係する人と知った。荒川資料館にまた行きたくなった。
無料で資料館に入れます。
歴史を見てからクイズをしたり、展望室は休憩スペースもあり、望遠鏡も設置してあります。
外は幾つもの積があり、みんな回ると結構な散歩コースになります。
公園も併設していて少さな子供も楽しめます。
私が初めて当館を訪れたのは、旧館(1978年~2001年)時代の1998年でした。
2002年度に竣工が成された現資料館は、旧館の面影を残しながらも、お洒落でモダンな佇まいは2020年の現在でも見劣りがしません。
私は2006年度から、毎年訪れております。
兎にも角にも、旧館時代からの入館料無料は本当に有り難いですね。流石は、国土交通省が運営をする資料館です。
それでは、各フロアごとにこの資料館の魅力を御案内致します。
1階:受付と、綺麗なトイレ(和洋の、両方有り)が有ります。
また、エントランスの左横に閲覧室(入館者の方々が四季折々の撮影をされた、写真が掲示されている)が有ります。
このフロアは、古代からの新潟平野の成り立ちや、信濃川と共に生きた先人達の苦難の歴史(治水と洪水の歴史)をジオラマ等から学べます。
また、現代に大河津分水路が無かったら、信濃川の洪水時に甚大な被害を被る事を知るシュミレーション動画室も有ります。
2階:江戸時代から論じられて来た、大河津分水路の建設計画から完成。そして、完成後の自在堰陥没による補修工事の苦難の歴史を学べます(計100人もの死者を出した、壮絶な難工事でした)。
2000年に完成した新洗堰や、2011年に完成をした新可動堰に関するジオラマ、そして実際に大河津出張所が行っている洪水時の対応シュミレーションをクイズ方式で学べます。
また、初期の工事の責任者で有った青山士(あきら)先生や、自在堰陥没補修工事の責任者で有った宮本武之輔(たけのすけ)先生(御二人共、東京大学の教授)の遺徳を忍ぶコーナーも有ります(音声ガイダンス付き)。
更には、2015年度から開始している、分水路の河口部の大改修工事の内容に関する資料も展示されております。
尚、トイレは1階と2階(こちらも、1階同様に綺麗です)にしか存在しませんので、御注意下さい。
エレベーターは、コビッド19禍の2020年12月現在では3密回避の為に、資料館では使用を推奨しておりません。
3階:小規模な、図書館になっております。
青山先生の著書を始め、地図や治水工学の本が多く置かれております。
また、会議室が併設をされております(施錠をされており、一般客は入室が不可)。
4階:最上階で有り、展望室となっております。
ドアを開ければ展望台に出られる様になっており、望遠鏡で風光明媚な風景を眺める事が出来ます。
但し、悪天候(冬場の吹雪や、夏や秋の大雨)の場合は、ドアが施錠で閉められますので御注意下さい。
大河津分水路付近の、実に精巧なジオラマが展示をされております。
新潟平野の守り神とも言える大河津分水路は、2022年で竣工100周年を迎えます。
皆様も是非資料館で、偉大な先人達と現代の技術者達が織り成す歴史ロマンに触れられたら如何でしょうか。