摩利支天塚古墳
住所 | 栃木県小山市飯塚362 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/138077 |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 4.6 7 件の口コミ |
Marishitenzuka Kofun | |
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摩利支天塚古墳 件の口コミ
7 立派な古墳です。
頂上には神社が祭られています。
針葉樹の大木(御神木)は古墳を守ってきましたネ。
これまで千数百年の間、地域の方々の手によってお祭りされ、崇められてきたのでしょう。日本の伝統文化の素晴らしさを垣間見る気がします。
南側に鳥居がありそこが入口です。摩利支天塚古墳以外の,琵琶塚古墳の資料館に車を停めて、近くの道路を南下、左廻りで行くのがいいです。
入口近くに石塔が三基、今回はよく読めませんでした。
階段を登り前方部に着くと、馬の背の様にくびれていて、古墳の様子がよくわかります。今の時期は、ドクダミがフローラをつくっていて白い花が見事です。
ヤマユリの保護に取り組んでいるようで、看板があちらこちらに!
大切に守っていきたい場所です。
「初めての前方後円墳なの!」
古代の下毛野国において、支配者層たる豪族の墳墓はちんまりした円墳ばかりだったのですが、5世紀末に突如現れた最初の大型前方後円墳が摩利支天塚古墳です。
当時はヤマト王権に近い者のみがこの形状の古墳を造っており、権力の象徴であったと考えられています。
つまり、この地においてヤマト王権と最初に密接な関係(主従?同盟?)を結んだのが摩利支天塚古墳の主だったと推測されます。
また、ここの隣りにある琵琶塚古墳は6世紀初頭の造営と目されていることから、その主は摩利支天塚古墳の主から跡目を継いだ二代目、という事かしら?
この古墳が作られた5世紀末といえば、雄略天皇あたりの時代です。埼玉県行田市にあるさきたま古墳群なども同時期に造営(稲荷山古墳から出土した国宝の金錯銘鉄剣には、埋葬主が雄略天皇の側近だった事が記されています)されており、ヤマト王権による東国支配は5世紀頃から、と見るのが妥当でしょう。
日本書紀ではヤマトタケルの大活躍によって東国を支配下に治めたとされていますが、ヤマトタケルは記述通りだとしたら1世紀頃の人物。
ましてや実在したかどうかもかなり怪しいですからねー。
ところでこの摩利支天塚古墳、2020年度から数カ年をかけて発掘調査の計画があります。
40年前の調査ではこれと言った埋葬品はおろか石室すら発見できませんでしたので、今回はリベンジ!
是非日本の考古学史を変えるような大発見を期待します!
この遺跡の大きさ、
写真では伝わらないのが残念。
関東でTOP10に入る
素晴らしい古墳です。
この下野エリアに、
強大な権力を持った豪族がいたことは
間違いないでしょう。
摩利支天塚・琵琶塚古墳と案内板にある様にセットメニューの如く連立した古墳です。その広大な規模は栃木県内で最大級の前方後円墳で琵琶塚古墳と同様これ又圧巻の迫力でした。22年位前に既に行ったくらい知名度?有名な古墳だけに威風堂々とした様は感動的の一言で正に古墳の王様です。その真正面に立派な古墳資料館が行った時には完成間近?と新設された駐車場と共に開館直前の如く控えてました。