小山評定跡碑
小山評定跡碑 件の口コミ
6”犬伏の別れ”で有名な佐野市の新町薬師堂を訪れた後、歴史の流れに従って小山評定跡を訪れました。車で国道50号線を東に向かうと距離にして約20キロ、30分で着きました。小山市役所の敷地内にありますので史跡らしい雰囲気は全くありませんでした。石に刻まれた説明文を読まないと何の史跡か分かりづらいです。せめて建物でも残っていればなあ~と感じた次第です。
小山市役所近くにある"小山評定趾"を訪問。あの関ヶ原の戦いの前に、徳川家康が上杉景勝を討つべく小山に到着した時、石田光成が挙兵したことを知り、軍義をして、西軍打倒を決定した場所~。
こんな場所から、西の関ヶ原まで向かった事を考えると、感慨深~い。
関ヶ原の戦いの時に勝利をもたらす為に開かれた有名な軍議会議"小山評定"の歴史を今に伝える石碑
この会議があったからこそ徳川家康殿が天下人になれたと言われている
石碑は新しい市庁舎建設の為に木々が取り払えられて威厳がなくなっている感じでなんだかなと言う気持ちにさせられました
一応、国の史跡には指定されています
小山評定は、徳川家三百年の安泰の道筋をつけた重要な軍議で、慶長5年(1600)に、ここ小山の地で軍議を開き、「このまま上杉を討つべきか、反転西上して石田を討つべきか」を質したこれが世にいう「小山評定」ですが、何故この地に石碑があるの。ここも須賀神社の境内だったの。
慶長5年(1600年)4月、上杉景勝は家康から上洛して領内諸城改修の申し開きをするように召還命令が出るがこれを拒否する。この召還命令は景勝を排除するための策だと見られている。この際、兼続による挑発的な返答が、家康の会津征伐を煽ったとされる(直江状)。
慶長5年(1600年)6月16日、家康は陸奥国会津を領していた上杉景勝を討つために大坂を発つ(会津征伐)。入れ替わるように前田玄以、増田長盛、長束正家の三奉行の上坂要請を受けた毛利輝元が7月17日に到着(大坂入城は19日)。同時に三奉行連署からなる家康の罪状13か条を書き連ねた弾劾状(『内府ちがいの条々』)が諸大名に送られた。ここに関ヶ原の戦いの対立構造が成立する。
「小山評定」とは慶長5年7月25日下野国小山において、家康と会津征伐に従軍していた諸大名によって開かれたとされる軍議のことを指す。その場では福島正則が進んで家康の味方を表明し、山内一豊が徳川軍への居城明け渡しを申し出たことなどによって諸大名は家康のもとに団結し、会津征伐中断と上洛が決定したとされてきた。これまで関ヶ原の戦役におけるターニングポイントの一つと扱われてきた「小山評定」であるが、軍議における家康や諸大名の言動は「慶長記」・「関原始末記」等寛永・慶安期以降に作成された二次史料に記されているものであり、一次史料からは確認されない。