不動堂
住所 | 栃木県足利市家富町2220 |
電話 | +81 284-41-2627 |
サイト | ashikaga-bannaji.org |
カテゴリー | 仏教寺院 |
評価 | 4 3 件の口コミ |
Bannaji Fudodo | |
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不動堂 件の口コミ
3幕府陸軍
12 六月 2022 11:34
鑁阿寺
中御堂(不動堂)
文禄元年 (1592年) 、生実御所国朝の再建という。
足利国朝は、かつて総州小弓 (生実) 御所と称された足利義明の孫であり、国朝の父は義明次男の頼純 (頼淳) である。
小弓の地は、元々千葉氏の勢力圏にあり、千葉氏家臣原氏が在城していたが、永正・大永年間に義明を奉じた上総武田 (真里谷) 氏によって攻略され、義明の入城より小弓御所を称した。
しかし、天文七年 (1538年) の下総国府台の合戦によって足利義明が敗タヒしたことで小弓公方は滅亡し、小弓城は再び原氏の支配に復した。義明遺児頼純は逃れ、安房里見氏の庇護を受け、暫し潜伏生活を余儀なくされた。
天正十八年 (1590年) の豊臣秀吉による小田原征伐で、小弓城主であった原氏が後北条氏と共に滅した為、この混乱に乗じて安房里見氏の助力によって再び小弓を奪還したという。
小田原征伐の戦後処理に係る秀吉は、足利家断絶を惜しみ、古河公方足利義氏の遺児氏姫を、小弓公方足利頼純の子国朝に娶わせ、天正十八年に下野喜連川に3500石の所領を与えた。これが後に喜連川藩となる。国朝は文禄二年 (1593年) に文禄の役従軍中に病没し、家督は弟の頼氏が継承した。
当不動堂の案内板によると、「生実御所国朝」との表記になっている。これは、国朝が当時喜連川、古河、小弓の何れに在ったのかは不明なものの、文禄元年 (1592年) には、尚小弓に本拠があったという細やかな証拠となるのだろうか。後に喜連川に本拠を移す足利氏の末裔は、束の間の小弓御所再興を誇りに思っていたに違いない。
同郷の誼を感じ、不動堂では一層念入りにお参りした次第である。