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吉良邸跡(本所松坂町公園)

住所 東京都墨田区両国3丁目13−9
電話 +81 3-5608-6661
時間 00:00-24:00
サイト city.sumida.lg.jp
カテゴリー 史跡, 公園, 観光名所
評価 3.9 21 見直し
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吉良邸跡(本所松坂町公園) 件の口コミ

21
並び替え: 日付 最高評価 最低評価 最も参考になった
前川時寛
22 九月 2022 17:30

『忠臣蔵』でお馴染みの、『吉良邸跡』に伺いました。
こじんまりした場所でしたが、実際の吉良邸は、かなり広かったようですネ。
『忠臣蔵』は、映画やTVで、何度も映像化されました。
吉良役には、『月形龍之介』さんや『芦田伸介』さん等、名優の方々が、演じておられました。
最近、なかなか映像化されませんナァ~
まぁ昔の作品でも観て、思い出に浸りましょうかネ

nico
01 七月 2022 23:08

都指定旧跡 吉良邸跡。忠臣蔵で有名な吉良上野介義央の邸宅の一部で、当時の86分の1の広さとされている。また、この場所は「吉良公御首級洗い井戸」を中心に両国三丁目町会有志が発起人となって購入し、昭和9年に東京都に寄付したことにより維持されました。
入った印象はこじんまり。
なまこ壁と黒塗りの門が当時の雰囲気を醸し出している。
家臣の碑もあり、物悲しさも感じる。
歴史の一幕を垣間見れる貴重なスポットだと思います。

風の馬
19 四月 2022 1:16

道路沿いにある祠的な印象。外観からは屋敷の壁が見える。外には石碑があり、コンクリートで、8畳ぐらいの広さに、真ん中に背もたれありベンチ1つ、まわりには柵があり、石と、桜、梅や椿、紫陽花、紅葉、椎ノ木、松などの植え込みが少しあり、井戸、祠、吉良上野介の木彫りの座像を模した象、葛飾北斎の作品の一部などがある。

Masaki
08 三月 2022 19:20

2014.09.23
赤穂浪士討ち入りで討ち取られた吉良上野介の屋敷跡。
当時の屋敷の広さは、現在残っている場所の
数倍はあったと言われています。
敷地内にある「みしるしの井戸」は、
吉良上野介の首を洗った井戸として言い伝えられています。

討ち入りについては、様々な言い伝えがありますが、
幕府側用人であった柳沢吉保は、当時のちまたの評判を恐れ、
吉良上野介を田舎である隅田川の川向こうである
両国に追いやり、討ち入りをやりやすくしたのではないかとも
言われています。

葉室 麟 さんが直木賞を受賞された「花や散るらん」に
詳しく当時の様子が書かれています。

安藤俊幸
18 二月 2022 0:42

先日、愛知県西尾市の高家旗本/東条吉良家の菩提寺/華蔵寺と居館/岡山陣屋 (吉良陣屋・椿陣屋) 跡を訪問
今日、東京両国の旧本所松坂町「吉良上野介義央」上屋敷跡に来ました
ここは『忠臣蔵』赤穂義士討入りの場所、小ぢんまり史跡公園️

国道14号 (京葉道路) から少し南側の路地裏へ、表通りの喧騒が嘘の様な街角になまこ壁に囲まれた吉良邸跡
昭和9年に邸内の「吉良公首級洗い井戸」を中心に地元有志の方々が土地購入して当時の東京市に寄付、赤穂浪士討入りの吉良邸旧跡を保存との事、皆さんの心意気ですね、東京都指定旧跡に

なまこ壁の内側に屋敷の説明などの色々な案内板があります、吉良家上屋敷/約2500坪凄く広い、中々討入り時に吉良上野介が見つからなかった訳ですね

公園中央に吉良上野介の座像がありますが、愛知県西尾市の吉良家菩提寺/華蔵寺にある吉良上野介50歳、1690年頃に自分自身が造らせた寄木造の座像を参考に、その姿型そっくりに制作したそうです
この元の華蔵寺の座像は華蔵寺本堂横の「吉良氏影堂」の中に安置され、誰でも拝顔する事が可能です

※車は周辺のコインパーキング利用 (結構満車) 、お薦めは徒歩で両国駅から約10分位でしょうか
JR両国駅周辺は散策に最適
江戸東京博物館~吉良邸跡~両国公園/勝海舟生誕地石碑~すみだ北斎美術館~旧安田庭園等々、丸々1日満喫出来ます
夜は「ちゃんこ鍋」で一杯

中澤大輔
02 二月 2022 1:16

319年前の本日12月14日に江戸時代最大の敵討ちが行われたのが、現在公園となっている旧吉良邸。同日に泉岳寺では義士祭が行われていて多くの参拝者が赤穂浪士や浅野内匠頭の墓前に線香を手向けているのに対し、こちらはほとんど訪れる人のない寂しい状況である。講談や歌舞伎では一方的な敵役に据えられて気の毒にさえ思ってしまうので、毎年泉岳寺を訪れる際にはあわせてこちらにも足を運ぶ事にしている。史跡にしてはコンパクトであるが、色彩付の吉良上野介の座像は手入れされていて、近隣の方たちがこまめに手入れをしているのであろう事が窺える。

大屋武士
11 一月 2022 1:07

忠臣蔵の話が大好きでここも憧れの聖地でした!だけど…忠臣蔵の話って現代人の感覚だと間違いなく吉良が徹底的に被害者やよな

意地悪な上司が融通の利かん若い部下をねちねち苛めてたらぶちギレられて刃物で襲われ傷ついて…それからしばらくして自宅に47人の男が武器を携えて夜中に乱入ー挙げ句ぶっ殺されて首まで取られて…考えたら可哀想なおじいちゃんやで

どう考えても浅野が短慮やったな

一洋高橋
02 七月 2021 3:13

忠臣蔵でお馴染みの赤穂浪士に仇討ちされる方の重要人物の吉良上野介 (こうづけのすけ) 義央公。

吉良邸は、当初鍛冶橋に屋敷を構えていましたが、松の廊下の刃傷事件の5ヶ月後に幕府に召し上げられ (つまり、土地建物から追い出されること) 、それからさらに6ヶ月後に現在の本所松坂公園近くにあった松平登之助の屋敷を与えられ改築し要塞のような屋敷を作ります。その広さ8400平方メートルで坪に直すとだいたい2550坪になります。

吉良上野介義央公は、三河 (愛知県のこと) の一部に3200石、上野 (=こうづけ・群馬県のこと) の一部に1000石の計4200石 (現在の貨幣価値3億1500万円) の領地がありました。

伝記では悪役として登場しますが、じつは名君で知られていて、新田開発を主導したり、三河国の領地の隣国藩の西尾藩との揉め事の仲裁調停をおこったり、塩田開発や、飲料水獲得するための治水工事をおこったりした方で、領民に大変親切なお殿様として知られています。

つまり忠臣蔵は、ただの仇討ちではつまらないので、かなり脚色されて作られたノンフィクションである作品なんですね。

アクセス
JR中央総武線、両国駅から徒歩5分
都営大江戸線、両国駅より徒歩8分です。

永松一
11 六月 2021 21:35

赤穂浪士討ち入りの吉良邸に、行ったのですが綺麗になまこ壁で囲まれた、公園になっており、赤穂義士の碑やら吉良公の座像、御稲荷さん、御首洗いの井戸等有り、感じのいい公園です12月14日は此の公園から高輪の泉岳寺迄歩いた事も有ります

松澤登
31 五月 2021 3:59

赤穂浪士の討ち入りは、毎年テレビ等で見ております、歴史上三大敵討ちのひとつなれど、快挙の裏に銘々伝の、話しと、義士に、まつわる回りの天野屋利兵衛とか、妻子のおもい、内蔵助、妻との、山科の別れ、人生の悲哀は、憂き世の流れを、神のいたずらに、翻弄された時代ですね

川口和彦
22 四月 2020 18:47

当時の敷地面積から比べるとかなり狭くなってしまいましたが、吉良上野介義央の吉良氏の領地での評価、幕府内での評価等を知る事が出来ます。赤穂浪士の仇討ちで、吉良氏の評価が仮名手本忠臣蔵などの歌舞伎の演目により悪役となってしまい手いますが、当時の民衆の評価とは別に吉良氏から見た赤穂事件を考える助けになると思います。

市村寿男
17 三月 2020 6:49

昭和9年に地元有志が発起人となって吉良邸首洗い井戸周辺の土地を購入し、東京都に寄付したのが公園の始まりとか。小さい公園だが、有名な歴史的事件の現場がこうして保存されているのはすごいことだと思う。

Aziz
10 三月 2020 2:26

Another historic place that is a part of the Ako Incident and the revenge of the 47 Ronins. This is the remains of the villain’s house.

yutaka
07 三月 2020 7:55

「吉良上野介の子の悲運な最期」
討ち入りの日には高輪泉岳寺で華々しく義士祭がとりおこなわれるが、ここ両国の吉良邸跡では同時に吉良祭が行われる。

平成20年に訪れた時のポスター(写真)
町内会は町興しのために吉良祭では集客力が弱いので元禄市という名目で町興しをはじめたようだ。

吉良邸は江戸城の松の廊下での浅野匠の守の刃傷沙汰の後に日本橋からこちらへ処替となり居を構えた。
仇討に対する警戒をしていたにもかかわらず隙をつかれて未明に討ちいられて上野介の首をはねられてしまった。

吉良家は当時の旗本の高家として高い地位にあったようで公家との連絡、接待などの役目を受け持っていた。

しかし、どこの社会、組織にもいる地位をかさにきたイジメ体質の人物であったようで史料によると浅野の殿様の他にも上野介からイジメを受けていた人物は多かったようだ。

現代社会のように倍返しを夢見て我慢するサラリーマンのようにはいかず、家来、家族の生活を考えず、激情を抑えきれずに上司に暴力をふるったお坊ちゃんの浅野の殿様はお家断絶、切腹となり、家来は生活の糧を失い路頭に迷うこととなった。

旧吉良邸の一部が公園として残されている。
30坪程度の小さい公園である。
吉良邸は500坪ほどあったが、不浄の地として買い手が現れず、細かく整地して販売したと伝えられている。

この小さい公園内にはお稲荷さんがあるが、かって「上野稲荷」(コウズケいなり)と呼ばれていたがその呼び名が嫌われて改名したとの言い伝えがある。

さて上野介の跡継ぎは親戚(父が上野介の子であり上杉家に跡継ぎの養子となった)の上杉家から養子として吉良家へきた左兵衛義周(さへいよしかね20歳)は討ち入りの際に浪士と戦い深手を負い気絶をしていた。

その後1年後、吉良左兵衛義周は幕府の評定所に呼び出されて「仕方不届きにつき、領地召し上げ、諏訪安芸守へお預かりとする」となった。

そして罪人扱いの籠にのせられ一旦安芸守の屋敷へ送られ、そして信州高島で幽閉されて3年後に餓死同様に息が絶えてここに吉良家の血統は絶えた。

ここで不思議に思うのはなぜ勇敢に戦った左兵衛義周が仕方不届きなのだろうかとの疑問である。

その答えは吉良邸は私邸ではなく幕府の公邸であり、その公邸に狼藉者を侵入させて吉良上野介の首をとられたことが仕方不届きであると史料にある。
もし上野介が逃げおうせたらその後の展開もちがっていただろうに。

上野介のイジメ癖。浅野の忍耐力のなさ。赤穂浪士の実行力と執念。

吉良家の養子になったために可哀そうな身の上なった左兵衛義周に同情を禁じ得ない。

田口俊介
20 二月 2020 2:14

毎年恒例の元禄市、義士祭、吉良祭なんて呼び方もあるそうです。
早い時間に行かないと山形の芋煮はたべられないので、行くなら早い時間がおすすめです。
11時前くらいから芋煮スタート13時くらいには無くなります。
本当はもっと作れるんですが、人気過ぎて他の食べ物が売れなくなってしまうので、大鍋一つまでしかダメと商店会に言われてそうなってしまったそうです。
両国はアパレルメーカーや卸が多いので、ブランドのサンプルがあったり服も安く買えたりします。

佐藤義則
18 二月 2020 5:10

京葉道路から奥に入ったところに、
ひっそりと佇む吉良邸跡地。
しかし、ひっきりなしに来訪者があります。
さりげなく設置されている説明書きなどが、
かなり貴重なものに思えます。
討ち入りや、殿中での刃傷事件などに
想いを馳せながらどんな人物だったかを
想像するも面白いです

yummy
30 一月 2020 13:32

忠臣蔵で有名な吉良上野介の屋敷跡。本当はもっと大きな敷地なのですがこの一角が保存されています。
悪役のイメージをつけられているけれど地域の方から愛されているようで、訪れた日もマダムたちが「吉良様本当におかわいそう…」と手を合わせてらっしゃいました。

神山博光
03 九月 2019 7:11

本来の広さは、ほぼ両国3丁目全体だったようです。本所松坂町という名は、吉良家の領地が松坂だったのが由来。狭いというコメントがあるが、この公園は国や都、区が作ったわけではない。民間の有志がこの土地を買い取り、東京都に寄贈したんだそうです。

軽視猫ロンボ
06 八月 2019 18:43

ほんの少しの狭い所です。
名前から大きい所と思われて、訪れる初めての方はかなりの確率で場所がわからない、長らく住んでる方や勤務先の使い自分ははよく場所を聞かれた、今は地図アプリで行けるだろうが、ホントにちょこっとしたスペースしかない

らぐとりん
24 七月 2019 3:17

すごく小さな公園だし、往時のものは何もないけど、たたずんでいると江戸時代気分というか年末気分というか、そういうものに浸れます。意外に人気があるのか結構人が来てぼんやりが中断されちゃうんですが、それはしょうがないというか、逆に嬉しい感じです

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