野方配水塔
住所 | 東京都中野区江古田1丁目3−1 |
電話 | +81 3-3228-8731 |
時間 | 00:00-24:00 |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 3.8 9 件の口コミ |
Nogata Water Distribution Tower | |
近くの同様の会社 鳩山会館 — 東京都文京区音羽1丁目7−1 中山道板橋宿 平尾脇本陣・豊田家屋敷跡 — 東京都板橋区板橋3丁目15 清戸道の碑 — Tokyo, Nerima City, Yahara, 1 Chome−7 豊島長崎の富士塚 — 東京都豊島区高松2丁目9−3 |
野方配水塔 件の口コミ
9 大正時代に山の手地域の人口が急増した事を受け、昭和4 (1929) 年に完成した配水塔です。
多摩川の水を砧 (世田谷区) から野方 (中野区) 、大谷口 (板橋区) に送水するために、荒玉水道という地下水道管が敷設されました。
野方配水塔は、塔の中に水を溜め、水圧による自然効果によって各戸への配水を行う仕組みとなっておりました。
高さは約34m、直径約18mの塔は約2000トンの水を貯水する事が出来たという事でした。昭和41 (1966) 年にその役目を終えましたが、現在は国の登録有形文化財に指定されております。
また、太平洋戦争の空襲における弾痕が残っているため、中野区の平和史跡に指定されています。
私が訪れた時は外壁の補修中だったため、その全容を見ることは出来ませんでしたが、かなり大きく、偉容を備えていました。
2000トンの水を貯水できる堅牢な構造だからこそ空襲も生き延びられたのかもしれません。
ただ、公園を見る限りでは、工事中という事もあってか配水塔に関する説明は何一つなく、中野区のページやwikipediaを見て詳細な情報を得る事となりました。
仕事でバスを利用する際に、面白いバス停の名前だな、と思っていました。
バス停の名前は水道タンク前。
調べると1966年までは地域の配水塔として活躍、1972年から災害時の貯水タンクとして運用してるとの事。 (wikiです)
遠目で見ても大迫力。巨大な灯台みたいな佇まいは先人の技術の高さを素人ながら感じます。
哲学堂公園に行ったので、旧野方配水塔に寄ってみました。以前、新井薬師さまにお参りした時にバスの窓越しに見かけて気になっていたんですよね。
関東大震災後、東京市に隣接した町村の水の需要に応じるために13の町村が合同で設立した荒玉水道の給水場に造られました。高さ33.6mで基部直径が約18mの鉄筋コンクリート造。設計は近代上水道の父、中島鋭治博士です。
着工は1927年で1966年まで使われていました。解体計画もありましたが、災害用給水槽として使われ続け、現在は国の登録有形文化財として保存されています。みずのとう幼稚園ごしの姿もカッコイイ。地域のランドマークなんですネ。
配水塔は哲学堂東側の信号を越えると直ぐ左側にそびえる勇姿が見えますニャンコ下側にはみずのとう幼稚園があり昭和4年の竣工から地域ではみずのとうの愛称で呼ばれていたニャン高さは200メートルロケットタイプのズンドウのややエンタシス姿が妙に️可愛らしく優美な印象を受けますニャン当初は大正時代の東京西郊ベッドタウンとして良好な飲料水配布を目的としましたが現在は防災用として有りますニャン国の登録文化財となり現存している配水塔の中では最古ですニャンコ
この町のシンボルです。
令和の時代に昭和初期の建物は存在感抜群です。
最近まで屋根等の補修工事を行っていました。
以前は配水塔の公園で地域の盆踊りやバザーのような催しをしていましたが、今は全くありません。
これから道路拡張工事の予定もあるので、周りの様子も変わってしまうのかなと寂しく思っています。
哲学堂公園の近くたまたま、通り掛かり発見。
外観しか観る事は出来ませんが、国の有形文化財に指定された塔は、存在感が在ります。
歴史的遺産、ずっと保存遺して行って欲しいです。
荒玉水道は大正時代から昭和中期にかけ多摩川の水を砧から野方と大谷口に送水するために使用された地下水道管である。
東京の発展に伴う人口の増加による上水の需要増により敷設された。
現在も砧から杉並区梅里までの荒玉水道に沿って「荒玉水道道路」東京都道428号高円寺砧浄水場線がある。
「荒玉」の「荒」とは荒川、「玉」とは玉川、すなわち多摩川を指している。 荒川まで延伸する計画もあったが実現しなかった。
配水塔が野方と大谷口にあった。
大谷口配水塔は2005年に取り壊されたが、野方配水塔は今も残っている。
野方配水塔
1926年着工
1929年竣工
鉄筋コンクリート製
高さ33.6m
外径18m
大谷口配水塔
1925年着工
1931年竣工
鉄筋コンクリート製
高さ33m
外径15m
どちらもドイツで衛生工学を学び、近代水道の礎を築いた中島鋭治博士により設計された。
大ドームの天辺に更に銅瓦葺のミニドームを載せた四阿があり、大ドームの周りもアーチ窓が並びバルコニーも巡っていて展望施設の様でもある。水の塔公園。
公園の中にひっそりと立つ配水塔。戦時中の傷痕が残っていたりと歴史もあるが、公園内からでは全貌がイマイチ拝めないのが残念。
中野は旧跡をドンドン失くしていく政策の様だが、残して欲しい旧跡のひとつ。
説明板には下のように書かれてました。
野方給水塔は、荒玉水道の給水場につくられた塔でした。荒玉水道は大正十二年 (1923) の関東大震災後、東京市に隣接した町村の急激な都市化による水の需要に応じるため、当時の豊多摩・北豊島両郡にある十三の町々が連合して設立しました。
配水塔は、ドイツで衛生工学を学び、淀橋浄水場を作った「近代上水道の父」中島永鋭治(なかじまえいじ)博士(1858~1925)の設計です。
着工は昭和二年(1927)で竣工は同四年です。高さは32.6メートル、気部の直径約18メートルの鉄筋コンクリート造りです。
世田谷区の喜多見で多摩川から引水し、60万人の二時間分の貯水が可能といわれ、昭和四十一(1966)まで使われていました。その後解体計画もありましたが、平成二十二年(2010)に国登録文化財となり大切に保存されています。ドーム型の屋根が、地域の特徴ある景観をかたちづくり、江古田の水道タンク・みずの塔・給水塔などと親しまれてきた、東京近郊都市化のシンボルです。