和気清麻呂像
住所 | 東京都千代田区大手町1丁目4 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | visit-chiyoda.tokyo/app/spot/detail/110 |
カテゴリー | 彫刻, 史跡, 観光名所 |
評価 | 4 13 件の口コミ |
Statue of Wake no Kiyomaro | |
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和気清麻呂像 件の口コミ
13昭和15年に造られたというが再開発でもされたのか極めて綺麗な一角となっている。日比谷の楠木正成が武の忠臣ならこちらの和気清麻呂は文の忠臣。将門塚の方角を睨むように立っているのがちょっと気になった。
2026.12.7 初訪問
皇居には時々行きますが、こちらの像は初訪問
車で通るだけでは気づけませんね
サイクリングしていて初めて気づきました
とても立派です
和気清麻呂像/1940/佐藤清蔵
東京都千代田区にある銅像。皇居平川門近くの大手壕端にある和氣清麿のブロンズ立像。
作題:和気清麻呂像
作者:佐藤清蔵
建立:昭和15年 (1940) 2月
寄贈:石川博資
和気清麻呂 (わききよまろ) の銅像は大手濠緑地にあってやや南の大手門辺りを向いて配されている。清麻呂が宇佐神託を復奏するため宮中に登る姿が描かれた像。高さ4. 2mと大きく数多い清麻呂の像の中で最も著名な銅像。
昭和15年に皇紀2600年を記念して、大日本護王会と清麻呂公銅像建設期成会が銅像作成を計画し、朝倉文夫、北村西望、佐藤清蔵の三氏に作成を依頼。しかし、事前説明の不備から三者による競作と知らなかった朝倉文夫は原型を仕上げた段階で辞退し、此の作品が選ばれた。
和気清麻呂は京都へ遷し、崩壊しかけていた律令政治の立て直しを図った。天皇に重く用いられ、摂津大夫、民部大輔、中宮大夫、造宮大夫、民部卿など朝廷の要職を務めた。
寄贈者の石川博資は、京都洛東の東山の麓に山崎朝雲作「霊山観音」 (りょうぜんかんのん) を寄贈されている。此の白い観音像は平和日本の建設と殉国の英霊や大戦の犠牲者の冥福を祈念するため昭和30年に建立されている。
夜の皇居ランで何時も気になってちょっと寄り道
ここだけ細かな砂利で足元変な感じ。たまにボクサーの人がシャドーしてることが有りますが、砂浜みたいな感じできっといいトレーニングになるんだと思います。
皇統をお守りした方の像です。ご立派な出で立ちです。
この方は、平安京の位置を選んだ方でもあり、今は
京都の護王神社にお祀りされていらっしゃいます。
この場所はお堀沿い、大手町からもほど近く。
腰掛けて心を落ち着け、ゆっくりと休むことも出来ます。
和気 清麻呂(わけ の きよまろ)。
奈良時代末期から平安時代初期にかけての貴族。
宇佐八幡宮神託事件で道鏡が皇位に就くことを望んでいたがこれを阻むことになった。
清麻呂は楠木正成などとならぶ勤皇の忠臣とも言われている
古代の英雄。和気清麻呂。藤原仲麻呂討伐で天皇の新任を得た。しかし、当時の朝廷には道鏡という僧が力を振るっており、彼は別部穢麻呂 (わけべのきたなまろ) と改名させられて大隅国に流される。しかし道鏡失脚後に復権。和気清麻呂として見事カムバック。自分の利益を顧みない忠義の人であったという。この像は昭和15年、紀元2600年記念事業として、楠木正成像と共に文武の二忠臣を象徴し、建立された。
丸紅本社ビルで開催中の美術展に行く途中でたまたま発見しました。ぱっと見た感じは”恰幅のいいおっさん”ですが皇居沿いの日比谷方面には楠正成像もあるのでおそらく戦前、戦中は天皇の忠臣としての評価があったのかなと思いました。碑の文章は残念ながら解読できませんでしたがはたして昔の人は読めたのかと少し疑問にも感じましたがこれは悔し紛れ? (笑) 。あとこの場所はジョギングの休憩場所として利用している人も多くいました。景観がとても綺麗なので納得です。
東京メトロ竹橋駅の出入口付近、皇居大手堀に面した所にある。和気清麻呂は宇佐八幡から持ち帰った託宣により当時権勢を誇っていた道鏡の皇位簒奪を食い止める働きをした。いわば現在まで続いている皇統を救った人物である。昭和15年の皇紀2600年に際して作成された。
8世紀・古代日本で皇統断絶の危機を救った国士・和気清麻呂 (わけのきよまろ) の像。
地下鉄出口工事と合わせた広場の整備が終わり、周辺が綺麗に成りました。
コロナ禍に当像周辺がリニューアルしたのは、疫病で人心の揺らいでいる時の簒奪者に注意せよとの啓示…
かもと歴史に思いを馳せたりします。
内堀通りに面してKKRホテル東京の向い、東京メトロ銀座線竹橋駅の出入口2番の地上に清麻呂公園があり、ここに和気清麻呂の銅像が立っています。
皇位を狙った道教を退けて万世一系を守った和気清麻呂ですが、なぜか顔を向けているのは皇居の方向ではなく、東京駅の方向を向いて立っています。
お札にもなったわが祖国の大功労者である。
売国仏教坊主の道鏡は我が日本を乗っ取ろうとした
奈良時代の売国仏教坊主の道鏡は
女帝の称徳天皇陛下に取り入り
法王までなった
さらに天皇陛下になろうしたのである。
皇統を血統を背く行為である。
天照大神様と神武天皇陛下に血統のみが天皇陛下なれる。
それを乗っ取ろうとした。
我ら日本の危機だった。
それを愛国者の和気清麻呂が守った。
お札にもなったわが祖国の大功労者である。
神号: 護王大明神。(733年~799年)奈良時代末~平安時代の高級官僚。孝謙天皇の頃京に上り,武官として右兵衛少尉,従六位上の官位を得,天平神護1 (765) 年勲六等を受け,吉備藤野和気真人の姓を賜わった。
神護景雲3 (769) 年道鏡が宇佐八幡の神託と称して帝位につこうとしたとき,神託を聞くことを命じられた清麻呂は,道鏡が皇位を望むことは神霊もこれを震怒すとして道鏡の野心を退けた。そのため,道鏡の怒りを買って大隅に流された。宝亀1 (770) 年光仁天皇が即位すると,京に召し返されて和気朝臣の姓を賜わり,天応1 (781) 年従四位下となった。
また長岡京の造営が停滞していることを憂え,天皇に葛野 (かどの。平安京 ) への遷都を進言したり,摂津大夫のとき治水工事を行なったり,延暦初年,神護寺の前身である神願寺を河内に建立したりした。
天皇家にとっては恩人であることから皇居に建立されている。