大悲願寺
住所 | 東京都あきる野市横沢134 大悲願寺 |
電話 | +81 42-596-0141 |
サイト | www.city.akiruno.tokyo.jp/0000001453.html |
カテゴリー | 仏教寺院, 観光名所 |
評価 | 4.6 24 件の口コミ |
Daihiganji | |
近くの同様の会社 塩澤山 寳光寺 — 東京都西多摩郡日の出町平井3392 築地本願寺 あきる野分院 あきる野本願寺 — 東京都あきる野市菅生657-1 築地本願寺あきる野分院 廣徳寺 — 東京都あきる野市小和田234 東光院 — 東京都西多摩郡日の出町平井3963 東光院 |
大悲願寺 件の口コミ
24建久2年、源頼朝により建立された大悲願寺。およそ400年前、こちらを訪れたというのが独眼竜 伊達政宗。当時、政宗がよこした貴重な書状が残っています。秋川渓谷を訪れた正宗が庭の白萩に感動し、後日、株を譲って欲しいと頼みました。その白萩は令和になっても健在。9月頃に見頃を迎えます。
東京都あきる野市にある金色山大悲願寺。いかにも願い事を叶えてくれそうなお寺である。武蔵増戸駅と武蔵五日市駅の中間辺りの線路際にある、わりと大きめのお寺。境内はしっかり手入れされていて、日本庭園のよう。
御朱印は手書きの御朱印で、初穂料はお気持ち。書いて頂いたご住職 (?) は手を怪我されているにも関わらず、包帯とギプスを取って書いて頂いた。その気迫には驚かされた。
6月はじめの土曜日に訪れました。
歴史を感じる門や像、鐘などが待ち構えていて、身が引き締まる思いです。
御朱印をいただきに社務所に行ったところ、とてもにこやかにご対応くださって、歴史を紡いできた人たちの優しさも感じられました。
お寺が好きな方にはオススメできる場所です。また近くに来たときは寄りたいと思いました
最寄り駅 JR五日市線 武蔵五日市駅
又は武蔵増戸駅から徒歩で20〜30分
大悲願寺(だいひがんじ)は、
東京都あきる野市横沢にある真言宗豊山派の寺院。山号は金色山。院号は吉祥院。
本尊は大日如来
寺伝によると創建は1191年(建久2年)で、武蔵国平山(東京都日野市平山)の武将平山季重が醍醐寺三宝院の僧を招いて開山としたとされる。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。1794年に観音堂を建立。1824年から1827年にかけては観音堂内陣に欄間彫刻や向拝を追加。1834年から1842年にかけても彫刻や飾り板を観音堂内陣に追加したことがわかっている。との事です
駅から少し歩きますが行く価値はあります。楼門、中門(朱雀門)観音堂など素晴らしく特に観音堂の彫刻が彩色豊かで表面両脇に極楽、地獄(閻魔様の裁決)など描かれ、全ての面に色彩豊かな彫刻が施されています。中門は内側が赤く塗られていました。
そして真言宗のお寺に良くある八十八ヶ所巡りの像がありました。
R4/4/14 名勝古刹です!
この辺りでは大変有名な古刹で「悲願寺」と「大」を取り呼ばれ親しまれています。
近隣の多くは鎌倉の影響強くほとんどが臨済宗ですが大悲願寺は真言宗です。
伊達政宗にも縁があり多くの文化財を今に伝えます。
保育園併設していて子供たちの賑やかな声が聞こえます。
墓地の方は膝が悪い人には辛い場所ですね
ですが眼下に五日市線をのぞむ景色は素晴らしいです
自分が行ったときは鳶の出迎えてくれました
野鳥の会?が直前まで居たときは隠れていたみたいです
2022/04/08
キレイに整ったお寺。幼稚園が併設されており、駐車場は保護者の迎えと思われる車でいっぱいだった。お堂では地元の人々と住職殿と思われる方がお茶会を開いていて、一見さんである私は入るのに少し躊躇してしまった。寺の前の道はかなり狭いので、自動車での訪問は注意。
年末押し迫る中、五日市線を乗り鉄し、偶然mapでみつけて五日市駅から歩いて訪れました。
立派な山門に出迎えられますが、山門天井には天井絵が描かれています。その先の観音堂には天国と地獄が描かれた美しい彫物に目がひかれます。
御朱印も直書きでいただきました。
帰り際に納経所におられた方に声掛けいただき、院内のお参りでは四国八十八ヶ所巡りの御利益をいただけると教えていただきました。
ジョギングするのにいい駐車場はないかと探していたらちょうどいい場所がここでした。
ついでのつもりでお寺に寄って行こうと見てみると、なんとも立派な門があるではないですか。天井絵もあって素晴らしい。再建されたものと言っても江戸時代のものらしく、立派に建っていてくれているものですと感心してしまいます。
と思ったら装飾も素敵なお堂が。こちらも立派で見応えもあります。
で、ここを拠点に、周辺のジョギング、散歩は山道あり、川沿いあり、ちょっとした街でもあり変化のあるコースを選べて楽しいです。
五日市七福神の一つ
大黒天担当、大悲願寺
旧五日市街道沿いに長大な石階段を備える七福神最東端のお寺です。ここから始めるも良し、ここで終えるも良し、様々な想いを受け止めてくれる落ち着いたお寺です。
五日市線の車窓から白壁の長塀が良く見える。五日市駅から約20分、山門を一歩入り、天井を見上げると格子の間に描かれた大和絵が美しい。
本殿の彫り物は細部まで表現し、色鮮やかな彩色と合わせて迫力に満ちて眼を奪われる。
1191年、平山季重の開山と伝わる古刹で、当時は秋川の渓谷を見下ろす山の寺だったのかなと想いをめぐらす。境内の杉の大木が、その歴史の一端を見て来たかのように毅然と立っている。
四国八十八ケ所巡礼を思わす遍路があり、数々の石仏が迎えてくれる。
住職さんや立ち働く女性に出会うと「こんにちわ」と気軽に挨拶して下さり心も安らぐ。
10月20日、もう白萩は終わっていたが、裏山で野鳥がさえづり、静かな秋のひと時でした。
すぐ裏手の境外の緑地は遍路の続きになっています。そちらへも足を伸ばすといいですネ。樹間の小径で石仏が優しく微笑んでいます。
境内はそんなに広くないですが、立派な楼門の両脇には仁王像が睨みをきかせ、見事な天井絵に引き付けられます。あきる野市の里山に、こんな立派なお寺があることを知り、嬉しくなりました。観音堂の欄間には、天国地獄を現した彫刻が施され、けれも本当に見事です。
静かな佇まいの山門を抜けると鮮やかな装飾の本堂が現れます。周りには何十もの石像が奉納されていて幻想的です。
すぐ側の踏み切りから五日市線の列車を間近で見られて、景色も良い場所です。
このお寺は、私がシフト勤務帰りで遅くなった夕食に、マックスバリュで買った半額の総菜をぼんやりと口に突っ込みながら録画した『英雄たちの選択』を見ていると、突然現れました。
小田原攻めをする豊臣秀吉は、奥州の雄伊達政宗に小田原に参陣し、臣従をして北条攻めを手伝えというのです。
遠隔地にいた政宗はこれを無視し、しばらく秀吉の惣無事令を無視して領土拡張のための戦いを続けますが、北条の形勢不利と見るや、天正17年 (1589年) 小田原に参陣を決意します。天下人の座に足を掛けている秀吉に逆らい、近隣諸国に戦をしていたのですから、遅陣の詫びを兼ねた出陣は、死出の旅路になるかもしれません。
父の輝宗は天正13年 (1585年) にすでに亡くなっていましたから、母の義姫と弟の小次郎政道とで別れの食卓を囲いました。
ところが、そこで出された政宗の食事には毒が盛られていたのです。全ては幼いころ疱瘡に罹り、醜い容姿となった政宗よりも弟の小次郎政道を愛し、秀吉に伊達家を滅ぼされないようにするための母義姫の策略だったのです。
毒に苦しみながらも政宗は刀の鯉口を切り、弟の政道の命を絶ち、倒れ伏します。家臣らの解毒薬により一命を取り留めた病床で、母義姫が実家に逃げたことを知り密かに安堵した政宗は、療養の後、秀吉の前に死に装束で現れ、遅陣を詫びるのでした――。
ここまで正規で知られてきた歴史でした。
ところが、この度磯田さんが発見した資料によると新しい可能性が示唆されてきました。
なんと、伊達政宗の弟は生きていて、東京あきる野市の大悲願寺の住職になったというのです。
政宗暗殺未遂は狂言で、弟・政道を殺したことにして仏門に入れて伊達の血を残し、小田原での遅陣を詫びる、すべては策略であった――。
そんな、重要な寺があったとは――。
初めて見る事実に私は興奮しました。絶対に大悲願寺に行ってやる、と。
実はこの時、私個人は右足の小指を骨折し、足の中にはピンが入っている状態でした。
大悲願寺は武蔵五日市駅から武蔵増戸駅のちょうど中間地点にあります。
骨折をしてから初めて都市部ではない屋外の冬の傾斜地を歩くので不安はありましたが、好奇心は何にも勝りました。
行ってみると、立派な山門に、カラフルな天井絵が迎えてくれます。安政6年 (1859年) 建築です。廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、西南戦争で江戸情緒の残る文化財がことごとく灰燼に帰した南九州では見られず、太平洋戦争で激しい空襲があったはずの東京でこのような文化財が残っているのは何か不思議でした。
観音堂は寛政6年 (1794年) の建築だそうです。こちらも東照宮のように華やかな寺院建築でした。私の親族は眠っていないはずですが、墓地も訪れました。
ふいに風が吹き、何か植物の綿毛がふわりと辺り一面に舞降り、ここでなら死者は穏やかに眠れるんじゃないかと感じました。
梵鐘は太平洋戦争の供出を免れ、本堂の建築は元禄8年 (1695年) で――ここは戦災も震災も、不審火もない、時代の荒波を乗り越えてきた空間でした。
特に本堂の古さは特筆に値します。現存する江戸時代の建物とは、多くが江戸後期から幕末に建てられたものですから…。
東京にこんな場所があるとは、私の中の常識が音を立てて崩れました。
さて、肝心の伊達政宗の弟に関する看板を見つけました。
[伊達政宗 白萩文書]
仙台藩主伊達政宗が大悲願寺にあてた書簡である。当山13世住職海誉上人の時代で、たまたま政宗の末弟秀雄が上人の弟子として在山したという。また政宗は川狩りを好んだともいわれる。内容は先日訪問した折、庭の白萩が見事であったが、その白萩を所望したいという趣旨である。
その後、秀雄は15世の住職になります。
[白萩と臥龍梅]
当院の第15台住職秀雄僧正は仙台の藩主伊達陸奥守政宗公の俗弟であった。元和9年 (1622年) 8月政宗公は伊奈へ鮎漁に来遊、当寺を訪ねられた。その後公は当院宛に先度は参遂会面本望に候 仍って無心の申事に候へ共御庭の白萩一段見事に候き所望致候 先度は申兼候て罷り過し候 預候はば忝 (かたじ) かる可く候云々と書簡を寄せられてる。
秀雄が語り伝えられる政道だったら、このように別れ名残を惜しむように白萩を送るようにお願いするでしょうか。
そして、政宗は母の義姫とも親しげな手紙を交わし、義姫が仙台を出奔したのも、小田原遅陣から4年も後の話なのです。
2016年ごろに磯田さんがTVで話した説は、その後同じNHKですが、2021年の『知恵泉』で仙台市の博物館の学芸員だった方が、やはり政宗の暗殺は狂言だったのではないか、との説を披露しています。
なんでも、昭和40年ごろから政宗の弟は大悲願寺の住職になったと聞いたという手紙が仙台市の博物館には届き続けていたそうです。
このお寺は、武蔵五日市七福神のうち大黒天を担当し、多摩88か所霊場の59番も担当しています。こうしたお寺側の多くの参拝客を受け入れる姿勢が、歴史に隠された秀雄の姿を表舞台に浮かび上がらせてきたのです。
まだまだ世の中は発見されていないことが多いと感動させられました。
大河ドラマの『真田丸』で真田昌幸が小田原攻めで敗北し、切腹を決意した北条氏照を引き留めた台詞がこの場には相応しいでしょう。
「生きていればまだまだ、面白いものが見られますぞ」
最後に、すっかり伊達に関する記事が多くなりましたが、当山の歴史についても記載しましょう。
『寺伝によると創建は1191年(建久2年)で、武蔵国平山(東京都日野市平山)の武将平山季重が醍醐寺三宝院の僧を招いて開山としたとされる。江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。1794年に観音堂を建立。1824年から1827年にかけては観音堂内陣に欄間彫刻や向拝を追加。1834年から1842年にかけても彫刻や飾り板を観音堂内陣に追加したことがわかっている。
1951年に観音堂を改修し、屋根を茅葺きから本瓦葺きに変更。1978年3月16日に本堂が東京都有形文化財、1995年6月1日に観音堂が西多摩郡五日市町(現・あきる野市)の有形文化財指定を受ける。2005年から2007年にかけて観音堂を半解体修理。屋根を銅板葺きに変更。』
どうぞこれからもお寺が続き、私たちに時代を超えた感動や発見をもたらしてくださいますように。
今日、西田敏行と菊池桃子のテレビ番組『人生の楽園』で放送されていました
あきる野市に在るお寺です 真言宗豊山派のお寺で多摩新四国八十八ヶ所霊場五十九番と東国花の寺百ヶ寺東京十番だそうです
明日伺いたいな!もしも行けたら追伸も投稿しますね
令和三年六月十二日 (土)
行って来ました
※御朱印の仏様について
※長文です
伴侶の計らい. 佛様のお導きで
鉄は熱いうちに打てと申しますが
即実行そして今日は友引の良日
御朱印を頼む際、どんな仏様か尋ねると阿弥陀三尊と言われた
予想外の返答に少し戸惑いを感じる私が居る
それは一光三尊の善光寺式阿弥陀三尊なのか
一光三尊なら珍しいではないか
よくよく確認すると三尊は単像姿のいわゆる主尊と脇侍の形式
つまり主尊が阿弥陀如来, 左脇侍が観音菩薩, 右脇侍が勢至菩薩の別々のことを言ったのだ
ここで新たな説明があった
通常は聖観音だが代わりに十一面観音を配すると
最初の勘違いから一瞬理解に苦しんだが納得!
観音堂の無畏閣の本尊は弥陀三尊だそうです
予備知識を持って御朱印をお願いすれば良かったかな
無畏閣の仏様が国宝なのはこの仏様の祀り方だったのでしょう
境内には四国の移し霊場があり各仏様に参拝して真言を唱えたけど薬師如来が沢山鎮座してました
写経も開催中だし、お遍路の方も多く居ました
最後にお坊さんって凄いですね!
胎蔵大日の印のことで法界定印 (ほっかいじょういん) と話すと その方は『ほうかいじょういん』と話すそうですどちらでも間違いでは無いが密教で修行した者と経を勉強する人に読み方の違いがあるらしいです!
密教と顕教の疑義に違いがあるのでしょうか
奥が深いですね
令和三年六月十三日 合掌
観音堂には国指定重要文化財の阿弥陀如来像と脇侍が安置されているそうですが、非公開のため拝観することはできません。
でも、仁王門や観音堂の彫刻は素晴らしく、これを見られただけでも来てよかったなと感じさせてくれます。
五日市線の武蔵増戸駅から歩いて行かれる距離にあります。
大きな駐車場とその横に綺麗なトイレもあります。
中央湿地帯という所が直ぐ近くにあり、花の名前などが明記されてるので散策にも適しています。
天竺山と唐松山へのハイキングへも行かれます。
お寺茶屋も開かれています。
武蔵五日市駅から徒歩20分ほどのところにある真言宗のお寺。源頼朝、関東管領足利氏、徳川家康とも関係の深い由緒と趣あるお寺です。仁王門が素晴らしく、しばし眺める価値があります。納経所の中に七福神の大黒天をお祀りされており、すぐ傍でじっくりお祈りできます。
令和2年は伊達政宗ゆかりの白萩は9月22日が「見頃」と山門に書いてありました。
来年以降はどうなるか分かりませんが、参考にしてみて下さい。
仁王門の仁王様も古くて良いのですが、天井画も見事です。
江戸中期に建てられたという五輪地蔵が多摩地域で最も古いものらしいのですが、文字がよく見えませんでした。
四国88カ所を模した石仏がありミニお遍路も楽しめます。
寺カフェもやっているそうです。写経会や日曜日朝の読経会もあるそうです。近かったら、朝の読経会も参加してみたくなりました。
武蔵五日市七福神の大黒様を祀っているそうです。
私が行った時は、御詠歌の会だとかで、納経所に人がいなかったのですが、ちょうどコピーを取りに来た時に東国花の寺の御朱印をいただけました。
平日は午後1時から4時までが御朱印を行っているそうで、平日の午前中はやっていないみたいでした (2020年秋の時点では) 。
土日は午前9時から午後4時までですので、御朱印をいただきたい人は受付時間に気をつけてください。
身もふたもない言い方をすれば大した文化財はありません。国重文の仏像を所蔵しているものの非公開で、楼門、観音堂は市重文にとどまります。しかしながら見ごたえはなかなかのもので、境内もよく手入れされています。大悲願寺の堂宇は東西に横並びで配置されていて、寺院としての機能は東三分のニほどの新築の建物に集約されているようで、西三分の一に近世の建物が残されています。楼門(仁王門)も観音堂も立派なもので、観音堂は向拝とその左右にある極彩色の彫刻がとりわけ目を引きます。堂内が拝観不可なのは少々残念ですが、それでも近世社寺建築の魅力をじっくり堪能できます。
都下とはいえアクセス至便とは言い難く、周辺にこれといった社寺、史跡名勝の類がないのも難点ではあるものの、一度は訪れて損のないお寺だと思います。