武蔵国分寺跡
住所 | 東京都国分寺市西元町3丁目10 |
電話 | +81 42-300-0073 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.city.kokubunji.tokyo.jp/smp/shisetsu/kouen/1005196/1004222.html |
カテゴリー | 史跡, 仏教寺院, 観光名所 |
評価 | 4.3 20 件の口コミ |
Site of Musashi Provincial Temple | |
最寄りの枝 七重塔跡 — 東京都国分寺市西元町3丁目26−5 |
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武蔵国分寺跡 件の口コミ
20 府中市の国府から北方約2㎞の地に「東山道武蔵路」を挟んだ東西に聖武天皇による「国分寺建立詔」により「僧寺」と「尼寺」が出土遺物や「漆紙文書」の年代観などから天平宝字年間(757~765)頃に建立されたと推定されている。
全国60余国に建立されました国分寺も所在地が不明な国もあることから同一地域に「僧寺」と「尼寺」が判明し遺構も良好に保存されていることから国の指定史跡になってから2022年でちょうど100年を迎えた。
国分寺としての規模も大きく、七重塔が建立されるなど壮大な寺だったとされるが、承和2年(835)に七重塔が落雷により焼失し、その10 年後、再建願が出て許可されたことが『続日本後紀』に記され、10 世紀前半頃には寺域区画溝が埋没し、徐々に衰退していった。
新田義貞と鎌倉幕府方による分倍河原の合戦(1333)により国分寺は焼失し、建武2年(1335)には義貞により薬師堂が再建されたと伝えられている。
観光地をイメージするといけません。区画の区切られた広場で開発されていません。駐車場もありません。これは30年位前に来たときのイメージと大して変わりありません。
遺跡は創建当時日本一の規模だったらしいので、もっと売りだせば良いのにな、と思いました。
奈良時代に創建されたお寺ですが、今はその面影はほとんどなく、人々の憩いの場になっております。所々に建物の構成や間取りを説明した案内板がございます。
辺りを見渡すと、結構な広さであり、長い歳月と多くの人力で建てられた立派なお寺であった事が想像されますね。
第45代聖武天皇の詔により建立された金堂の跡地今は無き金堂であるがその礎石は遺されてあり当時の大きさが想像できる規模でした当時全国に蔓延した疫病とは天然痘のことです差し当たって言うとコロナが爆発的に増えて緊急事態が津々浦々に発生している様なところでしょう当時は今ほど医療も進んでなく勿論ワクチン等は無くこの苦難を仏教の力で乗り越える為に金光明最勝王経にもとづいて四天王を護持する国分寺を国分尼寺は法華経を絶えず読経する寺としまし。鎮護国家の為に詔を発令されたのでした
当時華厳経を説いていた良弁はその総本山として東大寺の毘盧舎那仏の建立を進言し、行基の力を借り民衆の力を集めて建立し疫病を鎮め国家を護り頑張りました
礎石と案内と區劃を示すコンクリートの型枠だけの「跡」です。分倍河原の合戰で燒けたとのことで、鎌倉時代までは在ったんですね。その後は野となれ山となれ、の状態。全國の國分寺って、そんなのばっかりですね。
国分寺跡の全国制覇を目指して、日々行脚を続けている人間 (笑) から見ると、この武蔵国分寺は他と比べると立地が少々変わっている事に気がつきます。
通常の国分寺は律令国家の威光を見せつけるべく周囲を睥睨する高台に築かれ、どこからも目立つランドマークとなっている事が多いのですが、何故かここは武蔵野台地の縁にあたる国分寺崖線の下側の方に立地しているのですよ。
なんでかな??崖上に造った方が迫力が増すと思うのですが。現に隣国の相模国分寺や下総国分寺はそうなってますし。どうやら、その理由の一つは都と国府を結ぶ官道の東山道武蔵路 (とうざんどうむさしみち) にあったようです。
東山道武蔵路を語るには、まず朝廷から見た「武蔵国」について触れる必要があるでしょうね。どうも当時の武蔵国は価値はあまり高くないと思われていたようで、中央政府から粗末というか、いい加減に扱われていた印象があります (笑) 。
飛鳥時代の天武天皇の時代に、古代の行政区分として五畿七道が整備されたのですが、武蔵国は江戸湾で海に接しているにもかかわらず、海あり国の駿河・相模・上総などの「東海道」グループには入れてもらえず、山国海なし国の美濃・信濃・上野・下野をはじめとする「東山道」グループに編入されてしまったのです。
東山道グループの国府を繋ぐ形で古代の官道が整備されたのですが、信濃 (長野県) から上野 (群馬) へ行くには南に寄りすぎている武蔵国の府中を経由するより、直接接続した方が早いんですよ。 (群馬県が上野で栃木県が下野ですが、古代官道では群馬県の方が都に近いので「上」なんです) 。それで本道とは別に南に迂回するルートとして造られたのが東山道武蔵路であり、鎌倉への道とも繋がっていました。
しかし当然ながら、地理的には東海道グループの相模国 (神奈川県の一部) や下総国 (千葉県) の方が連絡が良く、府中のすぐ横を流れる多摩川を使って海側から船による大量輸送も可能なので、次第に東山道よりこちら側がメインルートになってきました。行政的にも不都合が多かったのか、ついに771年に東海道に所属が変更されます。
さて武蔵国分寺と国分尼寺ですが、立地的には東山道武蔵路を両寺の間に挟み、なおかつ多摩川の近くで鎌倉方面への玄関口にあたる要地にあります。東海道に編入してもらうためにも旅人たちには通過点として、どうしても武蔵国で一番大きくて立派な建物を見て欲しかったんでしょうね (笑) 。
しかし、この立地が後に裏目出てしまうのです。鎌倉時代の末期に幕府打倒を策する新田義貞が、この武蔵路を通って南に進撃してくる一方で、多摩川を北方の最終防衛ラインとする幕府軍は府中のそばの分倍河原で待ち受け激戦となりました。
数多くの堂宇を持つ大寺は、兵の収容・休養、補給基地として最適なので、一進一退の攻防が続く中で敵に拠点を与えないようにするため、国分寺はどちらからはともかく焼き払われてしまったのです。
その事に新田義貞は後ろめたさを感じていたのか、乱の終結後に国分寺跡に薬師堂を再建しています。その系統の寺院は今も続いていて、元住職が始めた万葉植物園で有名です。
今は首都として文化経済の中心になっている東京も、都からは取るに足りない辺境扱いをされていた武蔵国時代を想像しながら国分寺跡を見学すると楽しいんじゃないでしょうか (笑) 。
周辺一帯は国分寺崖線といって多摩川の河岸段丘に当たるエリアで坂と湧水が多くあります。
そういう地形のためか、埋蔵文化財の期待からか、昔ながらの道の形が保全され、律令時代の名残を留めている貴重なエリアです。
ここに京都や奈良にあったような朱塗りの塔と金堂があったのかと思うと感慨深いです。
聖武天皇の建立の詔が741年に発せられても、伽藍の完成までには数十年かかるはず。
その間奈良の都では、玄昉や道教といったエロ坊主による政治的混乱や藤原氏と大伴氏の冷戦構造が続き政情は不安定。
そんな中、最果ての地で伽藍建造が営々として続けられたというのは驚き以外の何物でもないです。
大伽藍然り、近くで発見された東山道武蔵道然り、律令政府の東国経営は私の想像を遥かに超えるものだということをこの地に来て実感した次第です。
西国分寺駅前の案内板を十分に確認して歩き始めたが、20分を過ぎても辺りは住宅街。スマホのマップを見ると逆方向へ離れていることが分かった。方向音痴を自覚しているので差程の驚きはないが、予定の変更は確実になった。突然、小さな公園が現れ、古代の竪穴式住居跡との表示。更に、伝鎌倉街道への案内標識があり、それを頼りに進むと、ジョギングをする人が行き交う小道に出た。伝鎌倉街道である。暫くすると、中央に三本の欅の大木のある草原、国分尼寺跡である。その後は分かり易い標識もあり、順調に国分僧寺まで行き着けた。
隣国の国分寺に比べると壮大で、東国に置ける武蔵国の重要性が理解できた。
奈良時代の中頃、聖武天皇は仏の力で国を安定させるために、諸国に国分寺の建立を命じました。武蔵国では、都と国府(現府中市内)を結ぶ古代官道「東山道武蔵路」沿いの東に僧寺、西に尼寺が計画的に配置されました。
武蔵国分寺跡は、全国の国分寺跡と比べても規模が大きく、その歴史的重要性はつとに認められており、大正11年に国指定史跡に指定されています。
夕暮れ時に歴史の勉強と桜吹雪の歩き花見をするため、国分寺市の名前の由来となる武蔵国分寺跡に足を運びました。コロナが無ければ、最高のピクニックスポットです。子どもを連れて歴史遺産で遊んでいる御家族で溢れていました。史蹟で遊ぶなんて最高の贅沢ですね
お鷹の道・真姿の池から西へ向かうと左側に広場がある。金堂や講堂跡の礎石があるが、他にはなにもない。なにもないことで開放的な空間が広がり気持ちも晴々する。
のんびり歩いていると、一匹のネコが近づいてきて、頭をなでるとお坐りする。可愛いネ。ネコもこんな場所にいると、のんびりするようです。
国分寺建立の由来は、天平時代 (713年) 聖武天皇によって諸国に国分寺が造られ、武蔵国では武蔵野段丘を背景にしたこの地が選ばれたことによる。諸国に建立された国分寺の中でも最大級だったが、分倍河原の合戦で焼失したと言われています。
七重塔跡も含めて、荘大な寺院であったことが伺えます。
紺碧の空の下、心地良い風が吹いていた。天平の風も、今日の風のように爽やかだったろうか…遠い昔に想いを馳せる。
武蔵国分寺の復元模型が、お鷹の道湧水園の資料館にあります。七重の塔の模型もよく出来ています。ぜひご覧ください。
「武蔵国分僧寺跡」の金堂基壇と講堂基壇を結ぶ堂間通路が見事です。
発掘された、古代、武蔵国分寺布目瓦を、びっしりと敷き詰め、千二百年前と同様に復元されました。
しかし、一部には、平成時代のレプリカ(複製品)が使用されています。
その説明文が一切ない為、見学者には、実物とレプリカの区別が全くつきません。
このように、なんの説明もなく、復元に、実物とレプリカをチャンポンで使用するのはご法度です。
わかりやすい説明文の掲示が必要です。
一方、「国分尼寺跡」の復元には「尼坊跡」の礎石70個が全てなくなっていた為、平成時代に多摩川の石で復元しました。
70個全ての石に、このことを記載した金属プレートを打ち込み、後世の人が間違えないようにしました。すばらしい復元です。
遺跡の復元には、このような配慮が必要です。
原っぱに石が点在。昔、ここに建物があったことに思いをふけります。。公園のようになっていて子供たちが遊んだり、のんびりとレジャーシートしいて休日を過ごす、、そんな風景がみられました。いいですね!!
かつては寺の柱を載せていた石が並んでいるだけでしたが、最近は空き地部分に遺構の位置をを示すアスファルト模様や柱や看板などが設置されたので、より具体的に当時の様子を想像できるようになりました。市の積極的な働きに感謝です。20年10月現在。ストリートビューの写真が古く、現在の整備された様子が反映されていません。現地へ行くと景色が違います。
都内にある律令制度の遺構である。
今では、想像と説明版によるものでしか浮かばないが、
ここにはかつて広大な敷地を要した大きな寺院が確かにあった。
人も多くなく、個人的には毛越寺の対面にある観自在王院跡に似ていると感じた。
市が整備したのか、昔の遺構を体感できるよう広さなどの説明がある。
これをもとに、古代日本の一部を知ることは大変意義深いと感じました。
私の1押しの場所です散歩、ウォーキング、お花見、おしゃべりしながら過ごしたり、孫と思いきりボール️を蹴りあいます。近くにお鷹の道湧水に続く道のさんぽ、オタカフェで一休みして、国分寺駅南口の途中にあるカフェスローで、お食事するのもお勧めします
奈良時代に各国に建立された国分寺のうち、武蔵国のもの。広大な敷地内に講堂跡(基壇・礎石)・金堂跡(礎石・(整備しすぎた)基壇)・鐘楼跡(平面表示)・中門跡(平面表示)・七重塔跡(礎石、心礎あり)などが整備されており、当時の広大さを十分に感じさせてくれる。これだけの規模で史跡が残されるのは稀であり、非常に貴重なもの。
また幢竿(どうかん。堂前に立てる幟)を立てる遺構も残っており、往時の風景を思い浮かべることができる。
Really nice place to relax alone or with family. Wide open space. Several historic buildings.
Relatively no luxuries which could be a good or bad thing.
変に観光地化されていないところがとても良いです。
桜の季節に訪れると最高です。
交通アクセスは良くないので、また、十分な駐車場もなく道幅が狭いところなので自転車で行くのがベストです。
お天気の良い日にお弁当を持って出掛けて、のんびりと遥か1,200年前の世界に空想の翼を広げてみてください。
心のリフレッシュ効果は抜群です!