十思公園
住所 | 東京都中央区日本橋小伝馬町5−2 |
電話 | +81 3-3543-0211 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.city.chuo.lg.jp/sisetugaido/koento/kouen_hiroba_ichiran.html |
カテゴリー | 公園, 観光名所 |
評価 | 4.2 13 件の口コミ |
Jisshi Park | |
最寄りの枝 久松児童公園 — 東京都中央区日本橋富沢町16−6 小網町児童遊園 — 東京都中央区日本橋小網町9−1 中央区立両国橋際児童遊園 — 東京都中央区東日本橋2丁目25−8 浜町公園 — 東京都中央区日本橋浜町2丁目59−1 |
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十思公園 件の口コミ
13 伝馬町牢は慶長年間、常盤橋際から移って明治八年市ヶ谷囚獄が
出来るまで約二百七十年間存続し、この間に全国から江戸伝馬町獄送
りとして入宋した者は数十万人を数えたといわれる。現在の大安楽寺、
身延別院、村雲別院、十思小学校、十思公園を含む一帯の地が伝馬町
牢屋敷跡である。当時は敷地総面積二六一八坪、四囲に土手を築いて
土塀を廻し南西部に表門、北東部に不浄門があった。牢舎は揚座敷、
揚屋、大牟、百姓牢、女牢の別があって、揚座敷は旗本の士、揚屋は
士分僧侶、大牟は平民、百姓は百姓、女牢は婦人のみであった。
今大安楽寺の境内の当時の死刑場といわれる所に地蔵尊があって、
山岡鉄舟筆の鋳物額に「為囚死群霊離苦得脱」と記されてある。
牢屋敷の役柄は早頭に大番衆石出帯刀、御場死刑場役は有名な山田
浅右エ門、それに同心七十八名、総丁四十六名、外に南北両町奉行
から与力一人月番で牢屋敷廻り吟味に当たったという。伝馬町獄として
未曽有の大混乱を呈した安政五年九月から同六年十二月までの一年
三ヶ月の期間が即ち安政の大獄で吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎等
五十余人を獄に下し、そのほとんどを刑殺した。その後もこいで聴い血
を流したものは前者と合わせて九十六士に及ぶという。これ等愛国不
盡忠の士が石町の鐘の音を聞くにつけ「わが最期の時の知らせである」
と幾度となく覚悟した事であろう。尚村雲別院境内には勤王志士九十
六名の祠と木碑が建てられてある。
小伝馬町駅裏にあり、お寺の向かいにある砂地のテニスコートぐらいの公園。男女別トイレ、テーブル席二つ、ベンチ8つ、複合型滑り台、ブランコ、砂場、手洗い場がある。さらに鐘があり、吉田松陰終焉石碑が端にある。
Great place famous with clear tunnels that goes in the aqua tanks. My daughter enjoyed opening pearl from shell and they made it a necklace with it. She was so happy!
吉田松陰さん処刑の場です。
誰も知らないのか自分が巡礼しているのをみなさん不思議そうに見ておりましたが、毎日手を合わせにきている近所のサラリーマンと思われる男性を見かけて嬉しくなりました。
もっと注目されて良い公園だと思います。
Nice park. Big space for activities and games. Kids like the slide, swing, sandbox, mini rock climbing and enjoyed the trees and stones around the park
吉田松陰様縁の地&時の鐘
日本橋の一角にある公園であるが、素通りするには惜しい、一見の価値ありの公園である。
吉田松陰先生と言えば、幕末の歴史に名を刻んだ方。その松下村塾からは多くの幕末志士が育った。彼自身も相当な活動家であり、捉えられてこの伝馬町牢屋敷で処刑されたのである。
また、時の鐘。江戸市中に10カ所程度設置され、時を告げていた鐘の一つが現存する。
春のうららかな日差しの中で、桜は咲き乱れ子供達が楽しく遊び回る平和な公園が、かつては難攻不落の江戸のアルカトラス監獄の跡地だったとは想像もつきませんね (笑) 。
ここは「伝馬町牢屋敷」という敷地8639㎡ (東京ドームの建築面積は46755㎡) の面積を持ち、周囲に水堀と高さ2.4mの高塀を持つ監獄で、政治犯も含めて江戸中の囚人がここに集められていました。その全体模型が隣の十思スクエア別館に展示されています。
当時、世界最大の100万人都市である江戸の監獄にしては、規模が小さすぎるように思えますが、実は固定化した身分社会の元では極めて犯罪は起こりにくく、事件はマレで時代劇のように毎日強盗や殺人事件が発生していた訳ではないのです (笑) 。
多分、現在の1年間に起こる凶悪事件の方が、江戸時代100年間分より多いと思います。
あと吉田松陰の刑はココで執行されたんですね。小塚原の回向院にお墓があるので、てっきり小塚原刑場で執行されたものと思っていました。当時死罪になった人間は墓を作ることはおろか埋葬すら許されず、遺骸は刑場に放置され犬やカラスのついばむままにされました。そのため一旦松陰の遺骸は牢屋敷から小塚原に運ばれてきたのです。もちろん遺骸は弟子達がすぐに回収し、丁重に埋葬しましたが。
その他の展示物として、牢屋敷に水を供給していた井戸の遺構が保存され、ガラス越しの地下に観察することができます。「井戸の何が珍しいんだ?」と思うかもしれませんが、江戸の井戸は世界的にも珍奇な特別製なのですよ、何故なら「井戸だけど水道」だからです。
何言ってんだお前? 状態でしょうがお付き合い下さい (笑) 。江戸は徳川家康が開府するまでは、東京湾が皇居のすぐ下にまで入り込む遠浅の低湿地で、埋め立てによって出来た街でした。そのため井戸を掘っても海水が混じり飲用には適しません。
じゃあどうしたのかというと、神田上水や玉川上水など、はるか上流から真水を取水し木製の水道管を設置して江戸まで持ってきたのです。その後はターミナルから各地域に分水する、先進的なシステムになっていました。だから一見普通の井戸のように見えますが、実はその下まで水道管がつながっているのですよ。その様子がガラス越しに見ることが出来ます。
江戸っ子が田舎者に啖呵を切るときは「こちとら、生まれた時から水道の水を飲んで育っているんでぇ!」と凄んだらしいです。水道は都会人の自慢のタネだったんですね。こういうことを説明書きに書かないと、何が面白いのか分からないと思うんですけど・・・。
安政の大獄の処刑地という事で吉田松陰最期の地という事になる。が、私にとっては数十年前に勤めた会社での罰走の地であり連帯責任なので散々走らされた悪夢の思い出のみ(実業団のスポーツ選手でもなんでもない)当時を思い出しレビューを見たらこんなとこじゃないぞというぐらい変わってた。そもそも罰走でしか来ないから歴史的な観点で何も見ていないのでコロナ終息時の東京再訪候補筆頭。
かの吉田松蔭先生が最期を迎えた場所です。
ここは江戸時代からあった牢屋敷の上にある公園のようで、その公園の片隅に松蔭先生を祀った碑がひっそりと置いてあります。
なんとも感慨深いのですが、かつての牢屋敷の上を子供達がきゃっきゃ叫びながら走り回る姿を見ていると、とても素晴らしい時代になったなと思いつつも、不思議?違和感のある思いが湧いてきました。
※御覧頂きありがとうございました。もしこのレビューがお役に立ちましたらを頂けますと幸いです。
江戸の昔、伝馬町に牢屋敷がありました。
その跡地にある公園です。
隣接する施設 (十思スクエア) では伝馬町牢屋敷の模型が展示しています。
お昼時には公園でお弁当を食べる人達で混み合います。
歴史遺物を感じたい半分。怖いもの見たさ半分で、初めて訪れてみました。牢屋敷の跡とは思えぬほど意外に綺麗な公園です。
ただ公園内の木々が大きく枝を張っているため、奥は緑で薄暗く感じるほどです。吉田松陰先生の碑があり、留魂録の有名な辞世が刻まれてました。
実際の仕置き場はお寺の直下らしいので、道路を挟んで区別してあるようです。
なので怖がらずに、訪れてみたらどうでしょうか。牢屋敷地としての歴史体験と幕末志士の先駆けとなった吉田松陰先生の思いを感じてみる良い機会になると思います。
伝馬町牢屋屋敷跡として、昼間に観光案内の方と一緒に大勢の観光客が歴史巡りを行っている場所。公園の中には鐘もあり、毎年3月11日に追悼で鐘を叩いているようです。公園に居ると、鐘を突かせてもらえることもありますが、時間が午後2時~4時位だったと思います。
公園内に自販機がないので、休憩する方は近くにあるマイバスケットや自販機を利用すると良いと思います。
時間帯によってベンチの混雑が変わります。平日昼の時間帯から午後4時位は天気が良ければ混んでいます。
春の桜の時期はサラリーマンが席とりをするためブルーシートを敷いているのが目立ちます。