赤塚城跡
住所 | 東京都板橋区赤塚5丁目35−25 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | city.itabashi.tokyo.jp |
カテゴリー | 城, 史跡, 観光名所 |
評価 | 3.3 14 件の口コミ |
Site of Akatsuka Castle | |
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赤塚城跡 件の口コミ
14下総千葉氏の分家武蔵千葉氏の居城。周辺は谷が入り組んでいて確かに守るに良さげな立地。しかし武蔵千葉氏が小田原落城まで存続していたとは意外だった。ここへの登り口は赤塚溜池からか少し南のセブンイレブン横の階段から。
本丸跡は広く、南に梅林、北側は平らなので家族連れがピクニックなどをしています。その一角に城址碑があり、周囲をよく回ってみると土塁らしきものも残っています。
北側下に降りれば溜池がありここは外堀跡の名残らしいです。池以外にも周囲は幾分低くなっており外堀があったことが想像できます。
赤塚城の本城跡地として公園の広場に石碑と案内板が立ってます。
豊臣氏に滅亡されるまで、この跡地に大きな城が存在したようです。
ただ、まだ当時の城の内部や構造が解明されてない部分もあるようで、今に至ります。
記念碑・ベンチ・テーブルなどがあります。
毎年梅や桜がとてもきれいです。
広場になっているので、休日にはピクニックをする家族連れもいます。ボール遊びも特に禁止はされていないので、キャッチ―ボールやサッカーなども可能です。平日は人も少なく静かです。虫取りや秘密基地遊びをしている子どもたちを見かけることもありましたが、最近はあまり見かけないですね。森のようになっているので周囲からの目につきにくいので、小さい子どもを遊ばせる際には注意が必要です。
赤塚溜池公園から階段を登っていく際には注意が必要です。会談がかなり急で、落ち葉などで大変滑りやすくなっています。雨の日は通らないほうが良いと思います。また、安全を考えるなら、赤塚溜池公園からは少し遠回りですが、道路もありますのでそちらをご利用になることをお勧めします。
周辺には板橋区立美術館・板橋区立郷土資料館・乗蓮寺東京大仏などの観光地があり、とても楽しい場所です。しかし残念なところは交通の便があまりよくないことです。最寄りの鉄道駅は、都営地下鉄三田線の西高島平駅、東武東上線の下赤塚駅・成増駅です。いずれも歩くとそれなりに時間がかかります。途中の道には商店もあまりないので面白くないです。路線バス停留所は国際興業バス増17系統の区立美術館停留所です。しかしこの路線、毎時2本程度で小型バスでの運行となっており、休日にはかなり混雑している印象があります。このバスには東武東上線の成増駅や、都営地下鉄三田線の高島平駅などから乗車することができます。他にも板橋区コミュニティバス「りんりんGO」があります。東武東上線の下赤塚駅・都営地下鉄三田線の新高島平駅などから乗車することができます。ですがやはりこのバスも本数が非常に少ないです。
ここまでお読みいただきありがとうございました。2021年9月頃には主要駅からの交通アクセスも追記したいと考えております。もうしばらくお待ちください。
千葉市立郷土博物館で、献身的に源頼朝に仕え、鎌倉幕府成立に貢献し、頼朝から「父のように思う」と言われた千葉常胤 (つねたね) のことについて調べていたら、この赤塚城跡 (武蔵千葉氏:むさしちばし) について記載されていたので、機会があったら訪れてみたいと思っていて、今回訪れることが出来ました️
板橋区立郷土資料館1階の常設展示室にも、武蔵千葉氏についての解説がありました️
自分は赤塚城跡へ先に行ってから資料館へ行ったのですが、資料館で予備知識を付けてから赤塚城跡へ行ったほうが良いかもしれません️
同じ景色でも、分からない状態で見るのと、分かった上で見るのとで、違って見えることがありますので
前々から気になっていたところに初めて訪問。
梅林の方から登ってきたが、美術館方向に下る階段もかなり急で、なだらかな丘というより、まあまあしんどい感じの高さ(特に階段は勾配が急で若干怖かった)。
本丸以外の遺構(土塁や堀)は公園の外には出なかったので気づかなかった。
城跡を見に来る以外にはほとんど誰も登ってこない。
公園のほうに降りると人がワンサカいた。
豊島一族を屠った太田道灌により、関東管領勢についた武蔵千葉氏が居城とした。その後、江戸城を奪取した北条家に与するが、小田原征伐の際に廃城となった。武蔵千葉氏の墓は菩提寺の松月院にある。
本丸の北側(溜池)及び東側(美術館)が谷津による沼地だったので、城跡遺構はほとんど見られない。むしろ目立たない本丸南及び西側に空掘などの遺構がある。城址南の上赤塚観音堂付近の地名が中丸。また、東京大仏のある乗蓮寺が二の丸ともいう。
荒川は小高い丘の上に広い広場でした。
城趾の説明文の看板が有ったので転機します。
『武蔵千葉氏 と 赤 塚 城 跡』
下総国の守護千葉氏は、古河公方足利成氏と関 東管 領上杉家とが争った享徳の大乱に巻き込まれ一族で 骨肉相食む争いを繰り広げました。康正二年 (一四五 六) 成氏方の軍 勢に攻められた千葉実胤, 自 兄弟 は、 上杉家の助けをうけ、市川城を逃れて赤塚城と石浜城」 (現台東区) へ入城しました。
寛正四年 (一四六八) に兄の跡を継いだ自胤は太 田道灌に従って各地を転戦、現在の和光市や大宮市、 足立区内に所領を獲得するなど、武蔵千葉氏の基盤を 築 き ました。
その後、武蔵千葉氏は、南北朝以来の領主であった 京 都鹿王院 の支配を排除するなど赤塚の支配の強化に 努め、北条氏が武蔵国へ進出してくるとこれに従い、 豊臣秀吉に滅ぼされる天正十八年 (一五九〇) まで勢 カを ふるいました。
城は荒川低地に面し、東と西に大きく入り込んだ谷 に挟まれた台地上にあります。その縄張りは、 地形の 観察等から都立公園の広場の部分が一の郭、梅 林 の部 分が二の郭、そしてその西側ガの郭とする見解もあ りますが、正確はことはまだ明らかとなっていません。
平成十三三月
板橋区教育委員会
それなりに起伏がある状態で残っている。
しかしここは区内。本来ならば、もう少し広範囲に渡って城地があったと思われる。あるいは、東京大仏や赤塚城主とも縁のある松月院も城域だったかもしれない。
しかし、江戸期に農地化、新田開発、そして戦後の開発と宅地化により主郭部を僅かに残してほぼ消えてしまったのではと思う。
それだけに残った部分は貴重である。時間の許す限り、自分の足で歩いて、勝手な想像を思いながら、そして堪能する。
興味のない人間からすれば無駄な時間だが、私にとってはそれが至福の時間である。いいものを見させてもらいました。
周りが平地で小さな谷に挟まれた小高い丘を切り開いて城を作ったと思われる。
攻められ落城しているところからも防御度は低い。
頂上の城跡は平で芝生っぽくなっており、石碑がある。
まあ 城跡はこんなもんかと
周りには小さな池もあり いろんな木があり季節で結構楽しめる 板橋美術館 郷土資料館もあるし 周りぐるりでの楽しみかたができる所かなあと
少しゆるい坂を登るが 東京大仏も近くにあるし
全部合わせて 板橋のプチ名所ではと
散歩に丁度良い
1456年に千葉自胤によって築城されたと伝えられが正確なところは不詳である。 赤塚城は、真北にある荒川の早瀬の渡し場を一望し、また武蔵北部から武蔵南部の下赤塚、江古田に至る鎌倉道を押さえる、陸運、水運を掌握する要衝であった。赤塚千葉氏は後北条氏の有力な家臣として活躍したが、1590年に豊臣秀吉の小田原征伐で後北条氏が滅亡すると、千葉氏も所領を没収され、赤塚城は廃城になった。
現在は土塁、空堀、堀切、切岸など、江戸城を除く23区内の城址の中では最も多くの遺構が残っている。
練馬区に勢力があった豊島氏の分家が移り住んだのが最初といわれている。桓武天皇の曾孫の高望王 (たかもち) が皇位継承から外れ、その代わりに平の姓を与えられ朝廷の役人になり、上総守護の任についたそうだ、その時に名乗ったのが平上総介高望だったらしい。役人としての任期が終われば都に戻って次の任につくのだが、高望はそのまま上総 (今の市川市辺りらしい) に荘園を築いて土着した。その高望の曾孫が秩父に移り住み荘園を築き秩父氏を名乗ったそうで、その秩父氏の分家を秩父流平氏というそうで、その分家には豊島氏のほかに畠山氏、河越氏、江戸氏、渋谷氏などがいたそうです。この豊島氏の一族は結束が強く同じ豊島郡 (今の練馬区、板橋区に豊島区や北区の一部が含まれていた) の中で分家したそうで、赤塚氏のほかに滝野川氏、板橋氏などがいた。平安後期から鎌倉時代に勢力があったが、室町時代に本家の豊島氏が関東管領上杉氏と敵対し、上杉氏の家宰 (分かりやすく言うと執事) 太田道灌によって滅ぼされたそうだ。そのあとに千葉氏の内乱があったそうで、太田道灌は千葉氏の本家の兄弟を救い出し赤塚城に入城させたそうです。安土桃山時代は北条氏の傘下にあったため、秀吉の小田原攻めの時に関東の北条氏の城はことごとく攻め落とされ、赤塚城も陥落し、武蔵国に領地替えされた徳川家康は赤塚城の廃城を決定したそうだ。