青砥神社
住所 | 東京都葛飾区青戸7丁目34−30 |
電話 | +81 3-3602-9585 |
サイト | www.aoto-jinja.com |
カテゴリー | 神社, 聖堂 |
評価 | 4.3 7 件の口コミ |
Aoto Shrine | |
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青砥神社 件の口コミ
7 年末の除夜の鐘
つけなくなったのは 残念だ…。
風習だったのに 近隣の苦情で
取り止め… (T_T)
昔からやってることなのに
新しくできた 建物からの苦情…
残念です (T_T)
青砥駅から徒歩17分位で環七と水戸街道の交差の近くに鎮座されています。この一帯は古墳あり又環七の下は古墳時代の住居跡の遺跡が埋まっています。神社の廻りは昔、子供たちが沢山遊んでいましたが最近は、静かな住宅街になりました。環七が開通する以前の光景がとても懐かしく思い出されます。中川沿いにたくさん神社があり氾濫を防いで地域を見守っています。不便な場所ですが皆さんも参拝して古代の歴史に少しでも触れてみてください。参拝後に御朱印を頂くとタオルも頂けます。大変有り難い事です。
国道6号線、環状7号線交差付近に鎮座されている神社。
こちらも参拝時は、常に地元の方が参拝されている感じで、人が途絶えることありませんでした。神輿展示の横に神職がおられ、
書置きのご朱印を頂きました。
駐車場有りますって口コミを見て初めての参拝に伺いました
鳥居️をくぐって手舎水の奥が駐車場になってます (4台駐車可能)
住宅地の合間にあり小ぢんまりした感じですが地元の方が随時参拝に来られて 愛されてる神社なんだと思いました
御朱印はこのご時世なのか書き置きで頂きました 口コミにも有りましたが参拝記念の青いタオルも頂戴しました
環七通りから中川に向かって折れると、さほど遠からぬところに鎮座しています。立派な社殿に、境内には参集殿なども持つ、都会の立派な鎮守様というところです。駐車場はなし。
当社のウェブサイトには、神社の歴史として「三社明神(稲荷・白髭・諏訪)と称し、この里の鎮守神と祀られた様子が天正丙子年(1576)頃から文献等に見え」、その後「明治の御代に入り、詔によって神社の正実を明らかにすることとなりました」とあります。
ー明治5年 社名を「白髭神社」と改称
-昭和18年 旧青戸4丁目鎮座の白山神社を合祀し、「青砥神社」と改称
-昭和35年 旧青戸町内に鎮座せる高木神社・八幡神社・北野神社・葛葉稲荷神社・水神社を合祀
-昭和45年~55年にかけての環状七号線の整備により、葛西城址鎮座の青砥藤綱神社を合祀
当地は現在「あおと」と呼ばれますが、かつては「おうと」。はっきりした語源は不明ですが、「と」は船着き場のようなものを指すという説もあり、中川下流の「おくど(奥戸)」=「おうど」と、同一の地区名であったかも知れません。
いま字面上「青砥」となっており、社伝にもあるように、鎌倉中期の武士「青砥藤綱」との関わりが示唆されています。ただし、彼は多分に伝説的な人物であり、『吾妻鏡』などの史料にもまったく登場しないので、当地を所領としたり、その名を土地に残した証拠はありませんし、「青砥」の用字は、青砥藤綱伝説以外で使われたことはないようです。
青砥神社
葛飾区青戸に鎮座する青砥神社は、近隣の青戸村の鎮守で、安土桃山時代の天正4年に創建されたといいます。
白髭・諏訪・稲荷を相殿で祀っていたことから三社明神社と称された時期もあり、その後、昭和初期から中期にかけて付近の神社を合祀し、祭神は九柱となり青砥神社と改称したという経緯があるようです。
ご祭神は、猿田彦命、健御名方命、宇迦之御霊命、伊耶那美命、高皇産霊神、誉田別尊、菅原道真公、彌都波能目神、青砥藤綱公の九柱です。
彌都波能目神は日本における代表的な水神です。
青砥藤綱公は鎌倉時代後期の名判官といわれた方で、「太平記」などにその名が見られ、江戸時代には歌舞伎や文芸作品の題材として人気を博していたとのことです。
御朱印には「葛西城址御殿山」と記されますが、最寄りの京成青砥駅から歩いて来る途中、「葛西城址公園」の脇を通ることになります。近くを通る環状七号線敷設工事の際、1972 (昭和47) 年に発掘調査が行われ、青砥神社近くから堀・井戸跡等や陶磁器・漆器等が出土しており、中世の城郭が存在していたことが明らかになったとのことです。
境内は広くはありませんが、よく整備されていて緑も多く、とても気持ちの良い空気が漂っています。立派な2本の銀杏と、御神木のスダジイがシンボルとなっています。
御朱印は参集殿横の授与所か、本殿横の社務所で頂けます。初穂料は500円で、タオルも頂けます。