武蔵府中熊野神社古墳
住所 | 東京都府中市西府町2丁目9−5 |
電話 | +81 42-368-0320 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.city.fuchu.tokyo.jp/bunka/bunka/maizo/kumanokohun.html |
カテゴリー | 史跡, 遺跡, 観光名所 |
評価 | 4.2 13 件の口コミ |
Musashi Fuchu Kumano Shrine Tumulus | |
最寄りの枝 武蔵府中熊野神社古墳公園 — 東京都府中市西府町2丁目9−9 分倍河原古戦場碑 — 東京都府中市分梅町2丁目59−1 |
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武蔵府中熊野神社古墳 件の口コミ
13 武蔵府中熊野神社古墳
府中市郷土の森博物館に資料有ります
この場所は、昔は外海からやって来た舟の上から、見ることができたんじゃろか。
陰影起伏図に反映するほどの大きさではないようだ。
と言うことは、外国船にアピールするわけではなく、ここの土地の労働者達へ威厳をアピールしていたのか?
建築の技術は挑戦半島から来たそうだ。
2022年1月下旬訪問
全国的に非常に希少な上円下方墳!
目の前の道を通る度に気になっていた古墳。
やっと訪問出来ました。
7世紀の飛鳥時代のとても希少なもの。隣接の記念館に設けられた室には新型コロナウイルス対策のため、入室出来ませんが、記念館の展示で古墳の中、発見された経緯などを知ることが出来ます。
コロナ明けに改めて訪問させていただきます。
以下、府中市ホームページより抜粋
武蔵府中熊野神社古墳とは?
武蔵府中熊野神社古墳は、飛鳥時代の7世紀の中頃(今から約1350年前)に築造された古墳であり、四角い墳丘 (ふんきゅう) の上に丸い墳丘が重なった形で、上円下方墳と呼ばれています。この形は、古墳時代の終わり頃に造られるようになった、全国的にも非常に希少な形の古墳です。武蔵府中熊野神社古墳は、国内の発掘調査により確認され、石が葺 (ふ) かれている上円下方墳の中では最大規模であり、もっとも古いものです。
古墳の形と大きさ
古墳は、三段構造で各段とも盛り土で築かれています。上から見た形は、1段目と2段目が正方形で3段目が円形です。2段目と3段目は全面が河原石 (かわらいし) で覆われています。側面を「葺石 (ふきいし) 」、上面を「貼石 (はりいし) 」と呼びます。1段目の外周には直方体に面取りされた切石 (きりいし) による「縁石 (えんせき) 」が並べられています。南側の切石は、石室前を占める前庭部の縁石に接続し2段目の側面に接合しています。2段目の側面は小口積みという積み方で、上面は扁平な河原石と丸い小石が平らに敷かれています。2段目の南側を切り込む形で石室の入り口が設けられています。入口は切石で組み立てられています。3段目は葺石が円環状に積まれ、その上は、扁平な河原石で覆われたドーム風となり、最上部は石が平坦に敷かれたと推定されます。
古墳は、中央の支配権力を目に見える形で表したもので、大きさや形に政治的意図が反映されると考えられ、設計法が研究されています。武蔵府中熊野神社古墳の墳丘にも規則的な設計が見いだされます。古墳全体の中心軸は真北よりも西へ7度傾いており、磁北 (じほく) に近い方向を示しています。墳丘の1段目の一辺の長さ32mは、上円部の直径16mの2倍です。2段目の正方形の一辺の長さ23mは、上円部がすっぽり収まる正方形の対角線とほぼ同じ長さに造られています。これらは、1尺が約35cmの高麗尺と呼ばれる単位で設計されたものと考えられます。調査時に残存していた古墳の高さが約5mありました。そこで、復元の高さは、高麗尺での18尺に近い約6mとしています。
石室の構造
石室は、横穴式石室 (よこあなしきせきしつ) で、三室構造でした。一番奥の玄室 (げんしつ) は、壁面が丸みを帯びた部屋で、奥壁は特に大きな石が使われていました。壁面は切石で組まれ、床面は平たい河原石が敷かれていました。
墳丘の断面をみると、異なる土の層を重ねる版築 (はんちく) 工法が採用されています。ロームを盛って一端突き堅め、その上に黒土混じりの土を盛って突き堅めるということを繰り返し築いています。また、石室に使われた石の削り屑が混じった層もある事から、石室造りと墳丘造りの作業が並行して進められたと考えられます。また石室の下もロームを主体とした土により版築工法をしており、石室を支える頑丈な基礎となっています。
出土遺物
石室内に、埋葬時の副葬品は、ほとんど残っていませんでした。しかし、ガラス玉・鞘尻金具 (さやじりかなぐ) ・環金具・釘が残されていました。
この中で特に注目されるのは、大刀 (たち) の一部である、鞘尻金具に刻まれた「七曜文 (しちようもん) 」という文様です。これは和同開珎 (わどうかいちん) (708年初鋳)よりも古いといわれる富本銭 (ふほんせん) にもみられる文様ですが、さらに7世紀後半のものと考えられます。また、遺体を納めた棺の飾り金具と思われるものも出土しており、被葬者は木製の棺に納められたと思われます。釘類が2箇所にまとまっていたことから、埋葬が二度以上行われた可能性も考えられます。
築造時期
石室の形態や鞘尻金具の特徴やその出土状況などを総合して考えると、この古墳は7世紀中頃には造られていたと考えられます。この頃は、畿内の中央政府によって、統一された日本の国が形づくられようとしていた時代であり、武蔵国に国府が置かれる直前と考えられます。
それまで各地域で造られていた古墳とは異なる形態の上円下方墳は、時代の変化を示すとともに、府中に国府が設置された背景をうかがわせる歴史的に主要な築造物といえます。
熊野神社古墳に類似した石室には、八王子市の北大谷古墳や三鷹市の天文台構内古墳があります。これらの古墳も7世紀代の古墳と考えられています。本古墳には掘り込み地業 (ちぎょう) 等の少し新しい特徴があります。
古墳は3段構造で、上から見ると、1段目(下層)と2段目(中層)が正方形、3段目(上層)が円形です。1段目の正方形の一辺の長さはおよそ32m、2段目の正方形の一辺の長さはおよそ23m、3段目の直径はおよそ16m。
上円下方墳と呼ばれる、上が円形、下の台座が四角い古墳で、全国に5例しか存在しない非常に希少な古墳のなか最大規模かつ最古いもの。
古墳全体の中心軸は真北よりも西へ7度傾いていて、磁北に近い方向を示している。
国指定史跡
全国でも4例程度という珍しい上円下方墳である古墳は国内最大級であり、国史跡として認定されている。神社の社殿も江戸時代のもので府中市の文化財に指定。
なお葺石は復元されたものとは言え、古墳が御神体のように神社が建っているのはかなりエモい。
一見オブジェのように街の中に現れますが歴史的にもとても貴重な古墳。
武蔵府中熊野神社古墳は、今から約1350年前に築造された四角い墳丘の上に丸い墳丘が重なった上円下方墳です。
2005年に国の史跡に指定され、2009年に保存整備工事が完了しました。
石室が造られた当時の状況にできる限り近い状態で復元した石室展示室と共に熊野神社の境内にあります。
住宅地の中に忽然と現れる異様な石組み。
これが古墳いうことならば堂々たる上円下方墳です。
このクラスの規模だと、大化薄葬令以前の築造と考えるのが普通。
大化薄葬令後だと高松塚に見られるように皇族(私は高市皇子被葬者説を支持)ですらあの程度の墳丘しか許されなかったことを考えたら、それより大きなこの古墳は大化以前の築造でなければならない。
大化以前となると埼玉(さきたま)古墳群と近い時期ではなかったのか?
これだけの古墳を築造した豪族はいったい誰なのか、興味深い。
ただ、現在の形が元の形を忠実に復元したものなのかどうかはどうなんでしょうか?
武蔵府中熊野神社の本殿真後ろにある日本列島の中では最大規模でもっとも古い上円下方墳
また古墳終わり頃に造られた中では非常に希少な形の古墳で学術的にも高い古墳です
さらに当時としては掘り込み地業などの少し新しい技術も使用しての古墳でもあります
出土品にも和同開珎以前に使用されていた富本銭に刻まれている模様と同じの模様が刻まれている"鞘尻金具"も見つかり学術的にも凄い古墳です
一応、古墳から出土した物は敷地内に建設されている"武蔵府中熊野神社古墳・展示室"に展示されています
本当に古墳自体巨大で見応えがあり圧巻です
まるで場違い的な雰囲気もありかなりミステリアスな雰囲気を感じる場所でもありました
国の史跡に指定されています
ただの石のオブジェかと思っていたら、とんでもなく貴重な古墳でした。日本にある上円下方墳のなかで最古・最大です。しかも上円下方墳は日本に4つしかないという貴重さです。出土品も貴重なものがあり、歴史的価値が相当高いです。被葬者は具体的にはわかっていませんが、相当すごい実力者だったみたいです。その昔、国府が置かれた府中の凄さをちょっと体験できました。
出来たらもう少し上から眺められる撮影スポットが欲しかったです。下からだとせっかくの立体感が上手く撮影できないです。
東京に古代の住居遺跡があることは知っていたものの、古墳があるとはつい最近まで知りませんでした。そして多摩川沿いには古墳が点在していると知り愛犬との散歩でまわり始めました。いくつか見て廻る中で規模が大きく再現されているこちらの古墳があることを知りました。愛犬とともに京王線の府中駅を出発。大國魂神社の参道を通り甲州街道沿いを歩くとまもなくして到着。正面には熊野神社、左手に博物館、その奥に整然と石積された古墳が見えました。先ずは愛犬とともに熊野神社に参拝してから古墳沿いを一周。愛犬とともに古墳を実感。とても有意義な時間を過ごせた休日となりました。
府中には、6、7世紀に多くの古墳が築かれ、その中でも国府の成立にかかわりが深かったのがこの古墳です。
全国的にも数少ない3段の上円下方墳です。内部の石室から出土した鞘尻やガラス玉などは、古代の文化と高度な技術を見ることができます。
資料館には、その時代とその後の歴史を、解りやすく見ることができました。
この古墳の採掘には、熊野神社の氏子のみなさんをはじめ、多くの市民の方々の多大な協力があったこと忘れることはできません。
甲州街道から裏道に入ったら、石に覆われた異様な構造物が目に飛び込んで驚いたのが2,3年前だろうか。古墳と言うと木々に覆われたイメージだが、当然、作られた当初はこのような形であったのだろう。そうとは言え、実際に見ると迫力があり、権力者の墓として相応しい威厳を感じさせる。現実には、数百年も経てば存在も忘れられて「あそこの小山の石拾って塀でも作ろう」という感じで石も剥ぎ取られ、木々に覆われてゆくのだろう。
しかし、古墳の跡には神社が建てられていることが多い。偶然だろうか。
古墳が作られた当時の姿というのは想像図で見ることはあったが、現物として見れるところはそう多くないだろう。行く価値ありだ。
近代になり発見された西府町にある古墳。 極めて珍しい上円下方墳という形であり、 全国的に6例しかない中で最大の大きさを誇る。 現在は精巧なレプリカですが、 実際作られた際の被葬者は武蔵国の有力者であった可能性が高いという・・・歴史ロマン溢れる場所。