「渋沢栄一像」朝倉文夫
住所 | 東京都千代田区大手町2丁目7−2 常盤橋公園 |
時間 | 00:00-24:00 |
カテゴリー | 彫刻, 史跡, 観光名所 |
評価 | 3.9 17 件の口コミ |
Shibusawa Eiichi Statue | |
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「渋沢栄一像」朝倉文夫 件の口コミ
17 大河ドラマで知名度上がったか
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(一橋家家臣)に取り立てられ、のちに主君・徳川慶喜の将軍就任にともない幕臣となり、明治政府では官僚も務めた。民部省を経て直属の上司である大蔵大輔と井上馨の下で大蔵少輔、吉田清成らと共に造幣、戸籍、出納など様々な政策立案を行い、初代紙幣頭、次いで大蔵省三等官の大蔵少輔事務取扱となる。
井上馨と共に退官後は実業界に転じ、第一国立銀行(現・みずほ銀行)や東京商法会議所(現・東京商工会議所)、東京証券取引所といった多種多様な会社や経済団体の設立・経営に関わった。そのうち企業は約500社にもおよび、日本資本主義の父と称される。
同時に東京養育院等の福祉事業、東京慈恵会等の医療事業、商法講習所(現:一橋大学)、大倉商業学校(現:東京経済大学)、高千穂高等商業学校(現:高千穂大学)等の実業教育、東京女学館などの女子教育、台湾協会学校(現:拓殖大学)の設立、二松學舍(現:二松学舎大学)第3代舎長就任等による私学教育支援や、理化学研究所設立等の研究事業支援、国際交流、民間外交の実践等にも尽力した。また『論語と算盤』の言葉に代表されるその道徳経済合一の思想でも広く知られている。
日本を代表する経済人として、また初代紙幣頭(後の印刷局長)として日本銀行券(紙幣)の肖像の候補者として何度も選ばれた。日本銀行券C千円券(1963年11月1日発行開始)では肖像候補として最終選考にまで残ったが、当時は偽造防止のため肖像には髭のある人物を使っていたことから、髭のない渋沢栄一を採用することは難しく採用されることはなかった。この際に作成された候補案のデザインはお札と切手の博物館で展示されている。後に偽造防止の技術が向上し、髭の無い女性も使えるようになったこともあり、令和6年度(2024年度)上半期に執行予定されている紙幣改定により、一万円札に渋沢の肖像が採用されることになった。
経営学者のピーター・ドラッカーも栄一の業績について「誰よりも早く1870年代から80年代にかけて、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した」と高く評価し、「20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」(『マネジメント務め、責任、実践』)と言及している。ドラッカーによれば、「岩崎弥太郎と渋沢栄一の名は、国外では、わずかの日本研究家が知るだけである。しかしながら彼らの偉業は、ロスチャイルド、モルガン、クルップ、ロックフェラーを凌ぐ」とのことである。
夭逝した子供、庶子を含めると多数の子女がいたが、嫡出の7人の子女とその配偶者およびその子女によって渋沢同族会が組織された。
長男:市太郎(1862–? ) - 母は千代。夭逝。
長女:歌子(1863–1932) - 母は同上。宇多とも表記される。法学者で後に東京大学法学部長、男爵、枢密院議長となる穂積陳重に嫁ぐ。著書に『穂積歌子日記』みすず書房。
二女:琴子(1870–1939) - 母は同上。こととも表記される。大蔵官僚で後に大蔵次官、大蔵大臣、東京市長、子爵、龍門社理事長となった阪谷芳郎子爵に17歳で嫁ぐ。
三女:伊登(1871–1872) - 母は同上。夭逝。
次男:篤二(1872–1932) - 母は同上。澁澤倉庫会長、妻は公家華族橋本実梁伯爵の娘敦子。渋沢家嫡男であったが1913年(大正2年)に廃嫡となり、18歳となった長男の敬三が嫡孫となる。理由は諸説あり定かではない。新橋の芸者・玉蝶との遊蕩を理由との説もあるが、事業家というより感性豊かな芸術家肌で、一族を統べるには蒲柳の質が心配されており、栄一は自身の没後の異母弟らとの家督を巡る争いの芽を事前に摘むための措置を取ったとも考えられている。
三男:無相真幻大童子(1883) - 母は兼子。生後すぐに逝去。
四男:敬三郎(1884–1885) - 母は同上。夭逝。
五男:武之助(1886–1946) - 石川島飛行機製作所2代目社長。母は同上。妻は資生堂創業者福原有信の四女美枝。
四女:止観妙心大童女(1887) - 母は同上。死産。
六男:正雄(1888–1942) - 母は同上。日本製鐵副社長。石川島飛行機製作所初代社長[79]、石川島造船所専務。
五女:愛子(1890–1977) - 母は同上。愛 とも表記される。銀行家で後に澁澤倉庫会長、第一銀行頭取、龍門社理事長となった明石照男に嫁ぐ。
七男:秀雄(1893–1984) - 母は同上。田園都市開発取締役、東京宝塚劇場会長、東宝取締役会長。庶子を除き子女の中では、唯一長寿を全うした。また、兄・武之助と共に第二次世界大戦を生き抜いた人物でもある。
八男:遍照芳光大童子(1895) - 母は同上。死産。
九男:忠雄(1896–1897) - 母は同上。夭逝。
庶子:文子(1871–? ) - 母は大内くに。後に東洋生命社長、武州銀行頭取となった尾高次郎に嫁ぐ。次郎は栄一の妻千代の兄尾高惇忠の子。
庶子:照子(1875–1927) - 母は同上。後に富士製紙社長、武州銀行頭取となった大川平三郎に嫁ぐ。平三郎は栄一の妻千代の姉の子。
庶子:星野辰雄(1893–? ) - 東京印刷社長・星野錫の養子となる。立教大学教授、専門は商法、フランス法。栄一の長女歌子の夫穂積陳重の弟穂積八束の次女と結婚。
庶子:長谷川重三郎(1908–1985) - 第一銀行頭取。
養子:平九郎(1847–1868) - 栄一の妻千代の弟。栄一が幕末の洋行に際し不測の事態でも家系が断絶しないように見立て養子としたが、栄一帰国前に飯能戦争で新政府軍に敗れて自決。
首都高速の日本橋界隈の地下化に伴って劇的に景観が変化すると思い散歩してた時に収めた一枚。
台座が高すぎて望遠の無いスマホカメラだと、凄く見上げる構図か正面狙いで遠ざかってズームだとボケる。
東京の中心に立つ渋沢栄一翁の銅像はなかなか立派です。ただちょっと目立たない所にあります。最寄り駅は地下鉄東京メトロ大手町駅と三越前駅ですが東京駅からも歩いて15分〜20分程度の近さです。私は東京丸の内北口から歩いて向かいました。常盤橋公園の端に建立されており銅像の隣は現在工事中でした。渋沢栄一翁の関連施設でしたら嬉しいですね。
また近くには貨幣博物館もあり無料で見学もできるのでお薦めです。
そんなに人通りも多くない常磐橋公園に意外なほど立派な故渋沢栄一氏の銅像が建てられています。
この銅像は実は2代目です。初代は1933年に建てられましたが第二次世界大戦による金属提供で撤去されました。現在の像は東洋のロダンとも称された朝倉文夫によるもので1955年に建てられています。
実は渋沢栄一の銅像は結構あちこちにあります。邸宅があった北区の飛鳥山公園、東京商工会議所、帝国ホテルの敷地内、板橋区の都健康長寿医療センター、そして出身地である深谷のJR駅前にもあるそうです。
この常磐橋公園は江戸城の城門の一つ常盤橋門があった場所であり、現存する城門の石垣は常盤橋門跡として国の史跡に指定されています。
日本橋から進むと、もうすぐオープンの東京TORCH 常磐橋タワーほど近くにありました。ちょっとまわりは整備のため工事中ですが、渋沢栄一先生の銅像が東京の発展を見据えて立っているような気がします。長年このあたりにいましたが、初めて訪問、大河も見ています。
日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一翁の銅像は、日本橋川沿い、常盤橋公園にある。渋沢栄一翁は日本初の銀行である第一国立銀行や東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテルなど500社以上の設立、経営に関わった。
神田川のほとり、大手町の外れに、次の一万円札の肖像となる渋澤栄一翁の像がひっそりと立っている。江戸末期から昭和初期まで生き抜き、戦争で接収された銅像を、昭和30年に復活させたと、現地の銘板にあった。
日本近代経済の礎を築いた渋沢栄一 (1840-1931) は、1840 (天保11) 年2月13日、現在の埼玉県深谷市血洗島 (ちあらいじま) の農家に生まれました。
1864 (元治1) 年、24歳の時 一橋慶喜 (ひとつばし よしのぶ) に仕え、その2年後には徳川慶喜が征夷大将軍 (15代将軍) となり、栄一は幕臣となります。
1867年10月14日に大政奉還され (政権を朝廷に返上) … 明治に入ってから… 日本で初めてつくられた株式会社:第一国立銀行 (現:みずほ銀行) や東京証券取引所、帝国ホテル、東京ガス、キリンビール、清水建設など500を超える民間企業の創立、医療・福祉・学校など約600の団体に携わりました。
1931 (昭和6) 年11月11日、91歳で永眠しました。
「新規に受注した大工事には自然と注意が払われる。しかし、日々の小さな工事こそ注意を怠ってはならない」という渋沢栄一の理念を今も受け継ぐ清水建設では… 修繕工事のような小さな仕事でも、気を抜いて失敗すると積み重ねてきた信用が一気に壊れてしまう。
そういうものを大事にしていかなければいけないんだと、特に若い社員にこの渋沢栄一の言葉の大切さを伝えている (話している) のだと、NHKの歴史秘話ヒストリアという番組で紹介されていました。
幕末から昭和にかけて活躍した日本を代表する実業家 渋沢栄一は、2024年の新1万円札の顔になります️
渋沢栄一像へのアクセスは、一番近いのは、東京メトロ半蔵門線「三越前駅」B1出口から徒歩約3分ですが、自分は東京メトロ銀座線「三越前駅」から経路検索して行きました️
日本橋川沿いに面した「常盤橋公園 (江戸城外郭の正門として重要な役割を果たしていた常盤橋門があったところ) 」の園内に、威風堂々とした佇まいの「渋沢栄一像」が建立されています️
日本経済の父と呼ばれる渋沢栄一の銅像は、都内には3体ありますが、その内の一つが日本橋川沿いにある常盤橋公園にあります。戦争による金属回収で一度は撤去されましたが、1955年に再建されました。渋沢栄一は、2018年に創立140周年を迎える東京商工会議所をはじめ、日本初の銀行である第一国立銀行、東京証券取引所、東京ガス、帝国ホテル、キリンビールなど500社以上の設立に関与した大実業家でした。22歳で江戸へ出て、お玉ヶ池にあった玄武館で剣術修行をしていました。また、神田小川町裏神保小道に住んでいたこともありました。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立、経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現、二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現、一橋大学)、大倉商業学校(現、東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている令和6年(2024年)より新紙幣一万円札の顔となる。また、令和3年(2021年)に渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送される予定
大手町と日本橋と渡す「常盤橋」の大手町寄にある常盤橋公園の一画にたたずむ銅像。新紙幣(1万円)の顔になることが決まっている。大手町から日本橋に抜けるのに良く使う道に像があったのは知っていたが正直、ニュースになるまで知りませんでした…。
江戸時代末期に農民(名主身分)から武士(幕臣)に取り立てられ、明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔・井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な企業の設立・経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現在の二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現在の一橋大学)、大倉商業学校(現在の東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている。2024年より新紙幣一万円札の顔となる。
大手町にぽつんと建っている渋沢栄一の銅像です。
看板にはいろいろな事が描いてあるので、読んでみると歴史に触れられることが出来ます。
銅像の裏側にも回れるので、いろいろな角度から見られます。
また、当日は雀がいたので記念に撮影してみました。
日本の色々な企業の設立に携わったので、何処に銅像建てるのか悩んだと思いますがこちらにあります。
ちなみにお墓は谷中霊園にあります。今までは谷中霊園の人と理解してましたが、これからは新札の人となり企業経営や設立についてテレビなどで取り上げられるでしょうか。
第一勧業銀行初め七十七銀行から他の業種に股がり現在では考えられない活躍をされてました。
谷中霊園に行きましたらまた徳川慶喜さんだけでなく、渋沢栄一さんも寄ってみたいです。
2019年4月9日の各マスコミ報道では、渋沢栄一さんが次の1万円紙幣の顔になるという。
近所では、日本一高くなる予定のビルが建設中で、ちょっとゴタゴタして立ち寄りにくく、像が目立たなくなっているのが残念。
日本の資本主義の父。出身はJR高崎線岡部駅(深谷駅でも)周辺。都内での旧宅は江東区永代にある。
渋沢さんは、埼玉県のご出身の様ですね、農家の出らしいです。道徳経済合一主義、なかなか難しいことをやられたのですね。こういう史蹟や碑を回るのもいいものです、説明板を読むと、これまで知ってたことは氷山の一角レベルだったことを思い知らせれつつ、ほんのすこし多くの事が知れることで楽しめます。