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赤羽香取神社

住所 東京都北区赤羽西2丁目22−7
電話 +81 3-3909-7002
サイト ak8mans.com/katori.htm
カテゴリー 神社, 聖堂
評価 4.4 9 件の口コミ
Katori Shrine
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赤羽香取神社 件の口コミ

9
並び替え: 日付 最高評価 最低評価 最も参考になった
Jun
31 十月 2022 18:43

Needs a bit of an exercise to reach to this shrine from the ground level. But you can have a nice view from the top!

15 一月 2022 17:22

稲付の小径のコースの一部。 野間坂方面から来ると急角度で左に折れなければならないので、気づかない可能性が。 参道の階段は狭いけど雰囲気が良い。登りきると丸っこくてカッコイイ狛犬さんがお出迎えしてくれます。境内はそんなに広く無いけど落ち着く心地の良い空間でした。拝殿も神楽殿もいい感じなんだよなぁ。力石があるのも珍しい。眺めもとても良いです。御朱印は判子ですが、今なら希望すると栄一くんスタンプも押印してもらえます。

Sugika
24 十一月 2021 2:46

どんなご利益があるかとか知らないけど、近所にあるので、行ってみました。
階段を登らないといけないので、おばあさんになって足腰が弱ったら、行けなくなりそう。
コロナで失業して、今は生活保護を受けてるので、新しい仕事が見つかるようにお祈りしてきました。
効果あったら、またここに書きます。

山田万歳
16 六月 2021 5:08

空爆の被害を境内に伝える神社であった。

まず,社務所側にある昭和三十五年 (1960年) 九月健之銘の復興記念碑の裏面に,「終戦五日前の八月十日に爆撃が合って,鳥居・神楽殿・社務所・境内諸施設が壊滅。また奥殿・拝殿が大破した※」とある。
実際に,社務所前の白い石柱には爆撃痕が見られ,社殿左手には破壊された鳥居が積み上げられており,また社殿右手には全体の八割が吹き飛んだであろう石碑があって,その背面には高速の瓦礫や石礫に抉られたであろう痕が確認できる。
個人的には,白石柱に軽い衝撃を受けた。炸裂した爆弾が石を抉り,黒い煤けを残している様に見える。

階段を登り切った右手側に小林祖順を顕彰する碑文がある。
明治三十一年 (1898年) 十月健之銘。題字揮毫は七十四歳の龍彦なる人であり,撰文は英雄道,謹書は戸田直政。
裏面の有志者連名には女性の名前も見られる。
碑文内容を見るに,小林の存命中に建てられた様である。以下,大雑把に訳す。
「先生の諱は祖順。号は大豊。長野県伊那郡古田村において,農民 小林瀬左衛門の次男として生まれる。幼くして出家し,諸国行脚の後,江戸駒込吉祥寺の「施檀学林」で修行した。学徳ともに高く,性格は瀟洒で,みなに慕われたという。明治二年 (1869年) 八月に稲付村に来てそのまま留まり,氏子を指導した。明治七年 (1874年) 十月に鳳生寺の住職となったのは村民の願う所であった。明治九年 (1876年) 八月住職を辞めて,小林小学校を設立し,教育に身を傾けた。以来,三十年が経って,村で小林先生の指導を受けていない者はいなくなった。先生は天保七年 (1836年) 一月二十六日に生まれたと聞く。老いてなお壮健であり,今も仕事に励んでいる。有志の者が石碑の建設を計画した。そして,先生から受けた恩をお返しする気持ちを表して,歌う(以下,漢詩略)※」

境内には複数基の力石もあった。
一つに「五十五貫目(約205キロ)」と刻むが,力石は,往々にして「実際に重さを測ってみたら,全然数字が違うじゃないか」ということもあるので,あまり刻字を鵜吞みにできるものではない。
案内板に「小川留五郎」に関する情報がある。力石に刻まれた人物の来歴がはっきりと分かり,かつ,この様に公に知らされているものは珍しい方である。明治時代にも力石を持ち上げる風習が続いていたことを示す史料になるかと思われる。

香取神社本殿は北区指定有形文化財。これを見に来たが,非公開であった。取り敢えず,調べた情報を載せる。
杮葺三間社流見世棚造。建築年月日不明(なお,流見世棚造,かつ,田舎神社にあったものではないという二点から,江戸前期頃の建築と推定はできる。)。
現地案内板には,
「……香取神社の本殿は、この近辺に暮らす人びとに、上野東照宮の本殿(内陣)を移築したものだと古くから信じられています……」
とあった。「内陣…?」と思い調べなおしたが,これは神仏が居座る場所,聖域,空間,区画を指す文化財用語であって,本殿の言い換えではないことは明らかであった(『文化財用語辞典』)。わざわざ括弧書きしているのだから,なんかしらの意図があるのだろう。


【戦災復興記念碑】
「昭和二十年八月十日第二次世界戦争ノ爆撃ニヨリ鳥居神楽殿社務所境内諸施設壊滅及ビ奥殿拝殿大破……」

【小林大豊顕彰之碑】
「師諱祖順號大豊小林氏信州伊奈郡古田村人父曰瀬左衛門業農師其第二子也幼出家行脚諸州後来江戸修行於駒込㫋檀學林學德倶進性又瀟洒人皆欽慕焉明治二年八月来本村也遂留訓導子第七年十月住職于鳳生寺共村民所懇請也九年八月辭職乃設立小林小學校傾身從事教導自来本村經年三十闔村無不受薫陶者師之生實在天保七年正月廿六日而今猶钁鑠從事焉於是有志者相謀刋石以表彰報恩之微衷銘曰 (漢詩略)」

岡田修一
10 四月 2020 3:04

赤羽の台地上に建つ神社。
見晴らしも良く、限られた境内ながらも昔ながらの懐かしさといったものが漂っている。個人的にはこうした雰囲気は大好きだ。
長い階段を上がるか、台地上に沿って裏側から行くかはそれぞれだが、
香取神社の案内板を見ると、香取神社本殿は、東叡山寛永寺本堂から移築であるという言い伝えがあるとのこと。1627年のことだそうです。
これだけ高い位置に位置していることを考えると、地域の人々から尊崇を受け、仕事を終えて家路に向かうときにお社のある山に向かって頭を下げたり手を合わせたり、そんな風景があったのかもしれません。
8月下旬の暑い日に来訪しましたが、とても丁寧にご対応いただきました。
景色も含めてとてもいい神社ですよ。

yutaka
30 三月 2020 5:39

この神社の境内には人を恐れない野良猫(地域猫)が住み着いていて子猫などは寄って来て遊びを要求する。
猫には子猫が大人の猫になる間に人間でいうところの小中学生にあたる時期がある。

神社境内で、うさん臭そうに私を見つめる大人の猫の間から遊びに寄ってきた猫がいた。

子猫ではないけれど、大人の猫ではない人間の小学生のような猫だった。
しばらく遊んだあと別れるときに塀の脇で見送ってくれた姿を写真に撮り、スプレー画にしました。

赤羽の稲付台地にある稲付香取神社はこの地区の鎮守。(写真)
歴史の古い神社で近くに大きな亀ヶ池があり、崖下を川が流れていた。
その川に稲が流れてきて止まったので稲付と呼ばれているそうだ。

入口には古い狛犬がいるが、どういうわけか「あ・うん」の狛犬のはずが両方とも口が開いており「あ・あ」の狛犬となっているのはなぜか。(写真)
近づいても気にすることもなく猫が日向ぼっこしている。(写真)
そのうちどこからともなく猫が集まってきた。
奥の矢印のところにも猫が出てきて、毛繕いをはじめた。(写真)

この崖下のテラスにもクロブチの猫がねそべっている。(写真)
寝てばかりいるからネコと言うのだろうか。

Mitsuhiro
09 三月 2020 20:32

赤羽駅から徒歩10分位、見晴らしの良い高台にあります。祭神は日本神話に登場する経津主神 (ふつぬしのかみ) ・大山咋神 (おおやまくいのかみ) ・建御名方神 (たけみなかたのかみ) です。境内に「香取神社本殿」と「稲付村の力石」に関する掲示板が設置され、それぞれ次のように説明されています。
「香取神社本殿
香取神社本殿は、境内東側に位置する拝殿の後ろに設けられた本殿覆屋の中に安置されています。朱塗りの三間社流造で、屋根は柿葺きです。石の亀腹の上に土台が据えられ、その上に高さ約10尺、奥行約八・三尺の社殿が建てられています。香取神社は経津主神・大山咋神・建御名方神を祭神としています。『新編武蔵風土記稿』には「村の鎮守とす、長二尺六寸許の石を神体となせり」と記述され、旧稲付村の鎮守でした。稲付村は十七世紀半ばの郷帳 (『武蔵田園簿』) に「御神領」と記され、東叡山寛永寺領に属していました。また、当社とも関係の深い法真寺 (赤羽西二丁目) の開山證道院日寿は、東照宮の造営にも深く関与した南光坊天海の弟だったとも言われています。このため、香取神社の本殿は、この近辺に暮らす人びとに、上野東照宮の本殿 (内陣) を移築したものだと古くから信じられています。上野東照宮の本殿とは、徳川将軍家が東叡山寛永寺を造営した際に藤堂高虎 (津藩初代藩主) が建てたもので、その事業には徳川御三家が協力し、寛永四年 (一六二七) に落成したことが知られています。」
「稲付村の力石
ここにある七つの石は、「さし石」と刻まれている力石です。江戸時代後期から明治時代にかけて、稲付村では、春の彼岸がすぎるころ、少しの間、農作業に暇ができましたので、村の鎮守である香取神社の境内に、村内の力自慢の若者たちが集まって、石の「サシアゲ」などして、力くらべをしたといいます。七つある力石のうち五つの石に重さが刻まれています。軽いものでも十九貫目 (約七十一キログラム) 、重いものでは五十五貫目 (約二百六キログラム) もあります。また、六つの石には、「小川留五郎」と名前が刻まれています。留五郎さんは、稲付村一里塚跡付近にある根古屋の小川家の人で、力が強く、村相撲の大関を勤めたといいます。石鳥居の脇にある明治三十九年 (一九六) 五月建立「日露戦役記念碑」の有志者連名中にもその名がみられます。明治四十年 (一九七) 六月十三日に五十一歳で亡くなりました。力石は、小川家に保管されていましたが、昭和四十年 (一九六五) 頃に香取神社へ奉納され、現在に至っています。力石は、鎮守の祭礼などで、これを持ち上げて、神意をはかるための石占に用いられ、後には、若者たちの力くらべをするための用具ともなっていきました。この力石は往事の稲付村の風俗・習慣を示す貴重な文化財です。」

かざまじゅん
19 七月 2019 3:14

坂の途中にあり、そこからやや急な階段を登ったら現れる神社です。小さく古びていますが、そこから見る北区の景色や静かなたたずまいにほっと一息させてくれます。御朱印もいただけますが、留守な事が多いので1回行って貰えたらラッキーでしょう。私は4回目で貰えました^^

きく正宗
12 六月 2019 0:12

赤羽駅から10分位です。住宅街の坂の入り口に小さい案内板が有ります。昔ながらの神社で伏見稲荷樣もまつられて有り住宅街の静な神社です。結構ネットにこちらの御朱印を載せてる方は多いので気になり行ってみました。

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