経王寺
住所 | 東京都荒川区西日暮里3丁目2−6 |
電話 | +81 3-3821-5241 |
時間 | 08:00-16:30 |
サイト | www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/nippori003.html |
カテゴリー | 仏教寺院 |
評価 | 4 9 件の口コミ |
Kyōōji | |
最寄りの枝 浄居山 青雲寺(臨済宗妙心寺派) — 東京都荒川区西日暮里3丁目6−4 経王寺 — 東京都台東区元浅草2丁目8−4 経王寺 真言宗豊山派 華蔵院(大悲山 観音寺) — 東京都荒川区東尾久8丁目46−2 寳蔵院(宝蔵院) — 東京都荒川区西尾久3丁目16−19 |
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経王寺 件の口コミ
9 1655年創建された、日蓮宗の寺院です。
慶応4年 (1868年) 、上野戦争に敗れた彰義隊士がここに隠れました。
そのため、新政府軍の攻撃を受け、今も山門に、銃撃の弾痕が残っています。
日暮里駅から、御殿坂を登りきったあたりに、ある寺院です。
春は道沿いの枝垂れ桜が歩く人を楽しませています。
It is a temple of the Nichiren sect, which was built in 1655. In the 4th year of Keio (1868), Shogitai, who lost the Battle of Ueno, hid here. As a result, it was attacked by the new government army, and shooting bullet holes still remain at the gate. It is a temple just up the Gotenzaka from Nippori station. In spring, weeping cherry blossoms along the road entertain people walking.
日暮里駅から御殿坂を上りきったところにある日蓮宗のお寺さんで、山号を大黒山と言います。明暦元年 (1655) 、当地の豪農冠勝平が要詮院日慶のために寺地を寄進し、堂宇を建立したことに始まるといいます。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られています。
慶応四年 (1868) の上野戦争のとき敗走た彰義隊士をかくまったため、新政府軍の攻撃をうけることとなり、山門には今も銃弾の痕が残っているそうです。
要詮院日慶が開山、当地の豪農の冠勝平が開基となり、明暦元年(1655)寺地を寄進し、当地に堂宇を建立したことに始まるといいます。山門には慶応4年(1868)の上野戦争の際に新政府軍が発砲した銃弾の痕が残っており、荒川区指定有形文化財となっています。
日暮里駅西口より徒歩約ニ分位の御殿坂を登った所。日蓮宗寺院の大黒山経王寺がありました。上野戦争の時敗走した彰義隊士をかくまった為新政府軍の攻撃を受けることとなり、山門には今もその時の弾痕が残っている。立派な寺院で境内も木々も多く良く手入れされて気持ち良く巡ることができました。
日蓮宗寺院の大黒天経王寺は、大黒山と号します。要栓院日慶が開山、当地の豪農冠勝平(新堀村の名手冠権四郎家の祖) が開基となり、明暦元年 (1655) 当地に創建しました。本堂の隣の大黒堂には日蓮上人の作と伝えられる大黒天が鎮守として祀られています。
彰義隊が敗走してお寺の門に弾丸が残る明治の歴史が残るお寺です。
上野公園からこちらに逃げてきてもこの銃弾にあたればひとたまりもありませんね。
歴史の残酷さを見られる場所がありました。
明治維新の少し前の慶応四年に官軍が江戸に到達したとき、勝海舟と西郷隆盛により江戸城の無血開城が決まっていたが、それを受け入れられない一部の幕臣達が上野寛永寺にて兵を挙げた。
官軍と幕臣(彰義隊)が寛永寺の黒門で激突し上野戦争が始まった。これがのちに上野戦争とよばれた。
圧倒的な官軍に押された彰義隊の武士は上野の山から逃げ出しこの日暮里方面にもやってきてこの経王寺に立てこもりこの寺の山門で一戦を交えた。
その時の官軍の鉄砲から発射された銃弾の痕が今も山門の板塀に残っている。(写真)
コンパクトな山門だ。
多くの観光客がぞろぞろと私の後ろを谷中銀座方面に歩いて行くが、目の前に見え始めた「夕焼けだんだん」に目を取られ、だれもこの寺には寄る様子はない。(写真)
近くで見ると板塀を銃弾が突き抜けている。(写真)
山門の門扉にも二か所銃弾の痕があった。(写真)
約150年前に逃げてきた彰義隊の兵士と官軍の兵士がこの山門で戦いを交えたのは間違いないだろうが、その戦いがどのようなものだったかは何も残っていないので推測するしかない。
戦闘で死者は出たのか。
彰義隊の兵士は逃げられたのか、捕まったのかといろいろとこの慶応四年に発射された銃弾の痕が想像をふくまらせてくれる。