旧陸軍被服廠跡
住所 | 東京都墨田区横網2丁目3−25 |
電話 | +81 3-3622-1208 |
時間 | 09:00-16:30 |
サイト | tokyoireikyoukai.or.jp |
カテゴリー | 史跡 |
評価 | 4 5 件の口コミ |
近くの同様の会社 日比谷公園 — 東京都千代田区日比谷公園1−6 旧岩崎邸庭園 — 東京都台東区池之端1丁目3−45 浅草寺 雷門 — 東京都台東区浅草2丁目3−1 皀角坂(さいかちざか) — 東京都千代田区神田駿河台2丁目11 |
旧陸軍被服廠跡 件の口コミ
5 東京市本所区は「関東大震災」では市内で最も多くの死者が出たほか、区域の約95%を焼失するなど、大きな被害を受けた。震災復興では多くの橋梁、道路、学校、大小の公園などが整備され1932(昭和7)年には寺島町、隅田町、吾嬬町が東京市に編入され、向島区が誕生。「太平洋戦争」中の空襲で本所区は区域の約96%が再び焦土となった他、向島区も区域の約57%を焼失した。戦後1947(昭和22)年、本所区 (城東区後に) と向島区は合併して墨田区となり、戦災からの復興を成し遂げ、更に発展し現在に至っております。
両国には、江戸中期の1734(享保19)年、約145,000㎡(「東京ドーム」3個分以上)の広大な敷地に、幕府の御米蔵「本所御蔵」が置かれた。「本所御蔵」は1872(明治5)年に廃止され、跡地には1890(明治23)年、「陸軍被服廠」(陸軍の衣類を取り扱う施設)が置かれた。1908(明治41)年、「陸軍被服本廠」(写真)へ改組・改称、1919(大正8)年に王子区(現・北区)赤羽台へ移転した。跡地は1922(大正11)年に「逓信省」と東京市に払い下げられ、学校などが整備される予定地となっており、翌年には「横網町公園」の建設される。
1923(大正12)年、「関東大震災」が発生すると、「陸軍被服本廠」跡地の「横網町公園」の建設地等々の広大な空地に、4万人ともいわれる住民が避難して地震発生から4時間ほど後の16時頃、火災旋風(広範囲の火災により発生する炎を伴う竜巻)に襲われ、敷地内だけで約3万8千人が焼死するという大惨事となったのです。震災での死亡者は、東京市全体で約6万人(本所区で約5万人)であり、市内の死亡者の半数以上がここで亡くなっている。写真は地震発生後に「陸軍被服本廠」跡地に避難してきた住民。このあと、火災旋風や焼夷弾に襲われることに成ります。埋葬されております。
「陸軍被服本廠」の跡地は、現在は「横網町公園」のほか、「NTTドコモ墨田ビル」(写真左の高層ビル)、「墨田区立両国中学校」(写真左下の学校)、「日本大学第一中学・高等学校」(写真中央の学校)、「第一ホテル両国」(写真中央奥)、「江戸東京博物館」の一部になっております。戦時中、東京市は「東京大空襲」等で再び焦土となり、爆撃や焼夷弾で多くの黒焦げ、人体が散乱した犠牲者が出た。戦後の1948(昭和23)年、「東京大空襲」での身元不明者の遺骨も改葬して納める事になり1951(昭和26)年に「東京都慰霊堂」と改称されました。実際は沢山埋葬されております。東京大空襲と言われても実際は「本所、浅草、深川、軍用地、工場が主で、他の地域は誤爆」で田畑や丘陵、多摩地域は殆んど爆撃無く疎開した方はおりません。
東京市は、1923(大正12)年の「関東大震災」で大きな被害を受けた事から、その震災復興事業の中で防災都市を目指すこ事となり、公園や道路の整備が進められた。本所区内には「錦糸公園」が「震災復興三大公園」の二つとして「内務省 復興局」により建設された。この場所は、震災前は「陸軍第一師団兵器支廠錦糸堀倉庫」であり1928(昭和3)年に開園、同年中に東京市に移管された。当初、公園の中央部には大芝生が設けられていたが、1932(昭和7)年に野球場を兼ねた運動場が建設され、その翌年にはプールも設けられる他、スポーツ公園として整備されており昭和戦前期の「錦糸公園」の一角、南西側に整備されていた少年遊戯場や総合体育館です。沢山埋穴を掘って仮に埋葬されております。その後は解りません。合掌
行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫
無料の記念館もさることながら、震災で焼け溶けた品々を保存して屋外に展示していてインパクトがありました。江戸東京博物館のついでに足を運んでみて良かったです。