世田谷城址 / 世田谷城跡
住所 | 東京都世田谷区豪徳寺2丁目14 |
電話 | +81 3-5432-2726 |
時間 | 00:00-24:00 |
サイト | www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/106/152/d00128560.html |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 3.6 12 件の口コミ |
Site of Setagaya Castle | |
最寄りの枝 |
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世田谷城址 / 世田谷城跡 件の口コミ
12 世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。貞治5年(1366年)に吉良治家によって築城されたと言われていますが、正確な築造時期は不明です。その一部、世田谷城址公園付近には土塁と空堀の一部が残されています。
世田谷郷が吉良氏の所領となった時期は少なくとも永和2年(1376年)以前であることは確実です。
12世紀後半~13世紀前半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。しかしながら、吉良氏が「世田谷吉良殿」と呼ばれ、世田谷郷を本拠地としていたことが確認できるのは、その後の応永33年(1426年)になってからです。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実(現在の千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となりました。
また、城内には吉良氏ゆかりの「弘徳院」(豪徳寺の前身)が存在していました。現在は、郭(くるわ)、土塁や空堀の一部をみることができます。最近行われた弘徳院境内と推定される地区の発掘調査で、空堀、土塁のほか、掘立柱建物、井戸、地下式坑などが発見されています。
世田谷城は吉良氏の居城として知られ、豊臣秀吉の小田原征伐の後に、廃城となりました。以前は、井伊家の菩提寺としても有名な豪徳寺の近くに本丸があり、この世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたとのことで城域の広さを感じます。世田谷城址公園内には空堀と土塁、郭跡が現存していて、コンパクトですが当時の土の城を感じることができます。
小田急線の豪徳寺駅から徒歩で約20分くらいで到着します。近くの豪徳寺とセットで散策がオススメです。
ずっと前に、東急世田谷線宮の坂駅から歩道を歩いて、この世田谷城址公園に向うと、歩道が無くなり、公園の中に入って石段を登る通路だった為に、道路に出て、先の交差点に向かう方が殆んどでした。
後方から進んでくる車を気にしながらとはいっても、危ないと思って、地域の方に訳を話して署名を集め対応を区議の方にお願いしました。
その結果現在の道路に沿った歩道が作られて、安心して歩ける様になりました。
せっかくなので、もう一度現地と世田谷城址公園を歩いてみました。
今の? 爺さんの自分と、当時の少しは若かったと思える当時の自分から見ても、この歩道が延長出来た事は、良かったよ\ (^o^) /
写真も取れたので、見て頂いて・・・
作られた当時の平城って攻めてきた武将たちの足さばきに影響する様に作られたなら、歩き回る今の時代の自分達は、ゆっくり歩いても体に無理させたのではないか?
と思えるね?
コンパクトな、あまりにコンパクトな城跡。城跡公園としてきちんと整備されているのが嬉しいね。遺構は少ないし全体像もイメージできないが、それでもいいじゃないか、整備して後世に残そうとする姿勢が嬉しいじゃないか、と私は思う。惜しむらくは城跡碑がないこと。是非設置を!
世田谷のど真ん中に良く城跡が残ってたもんですね、周りは住宅街
設置されている案内板で位置条件が把握できました世田谷城址の主郭部は豪徳寺の辺り、公園にするに当たり人工的な手が入ってますが雰囲気は分かります
世田谷御殿・吉良御殿とも、世田谷吉良家の歴史も古く200数十年領有、1590年の秀吉/小田原征伐で縁戚関係にあった後北条氏の滅亡と運命を共にしました。
ここ世田谷城跡は、戦国時代の足利家流
吉良氏の居城で、かの有名な赤穂浪士の吉良上野介義央の祖先です。
堀や、郭など、あって凄くかっこ良かったです!
豪徳寺が、吉良氏館跡で、ここ世田谷城跡は、詰城らしいです!
足利の支流・世田谷吉良氏(吉良上野介で有名な吉良氏の超遠縁)のお城。その正確な規模は不明であるが、本丸は現在の豪徳寺敷地内にあったのではないか?と考えられているとの事。
公園内には空堀と土塁が残っている。土塁はフェンスで覆われていて近づけないが. 。そこまで規模は大きくないものの、豊臣時代に廃城された城であるにも関わらず、ここまで宅地化されずによく残ったと思う。
世田谷吉良氏は、当初は鎌倉公方に仕え、その後は扇ヶ谷上杉や太田道灌と仲良くやり、最後は後北条氏に仕えたものの、小田原征伐で開城。ただし滅亡はせず、徳川家に仕えたそうです。
なお吉良氏に仕えていた大場氏は、江戸時代に井伊家に世田谷代官として取り立てられています。その代官屋敷も近くに所在していますので、合わせて見るのが良いと思われます。
世田谷城は現在の豪徳寺にあった城郭。
豪徳寺の境内が本丸だったようです。
外郭部が城址公園として開放されています。
僅かに土塁と空堀跡が窺えます。
かなり整備されているのでしょうが。
吉良氏が1400年頃に居館として整備、築城したそうです。
豪徳寺付近に本丸を置き、現在の世田谷城阯公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられているそうです。
今も濠や土塁が残っています。
1366年から世田谷を治めた奥州吉良家が居館として整備し、戦国期には城郭化されたが、秀吉の小田原征伐後には廃城となった。その遺跡が、東京都指定旧跡として公園となり、保護され、空堀や土塁が残っているようだ。
世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良氏の居城として知られています。1366年に吉良治家によって築城されたと言われていますが、正確な築造時期は不明です。その一部、世田谷城址公園付近には土塁と空堀の一部が残されています。12世紀後半~13世紀前半にはこの地に吉良氏が領地をもっていたことがわかっています。しかしながら、吉良氏が「世田谷吉良殿」と呼ばれ、世田谷郷を本拠地としていたことが確認できるのは、その後の1426年になってからです。1590年、豊臣秀吉の小田原攻めによる北条氏の没落に伴い、吉良氏は上総国生実に逃れ、世田谷城は廃城となりました。また、城内には吉良氏ゆかりの「弘徳院」(豪徳寺の前身)が存在していました。現在は、郭、土塁や空堀の一部をみることができます。最近行われた弘徳院境内と推定される地区の発掘調査で、空堀、土塁のほか、掘立柱建物、井戸、地下式坑などが発見されています。