慶應義塾幼稚舎
住所 | 東京都渋谷区恵比寿2丁目35−1 |
電話 | +81 3-3441-7221 |
サイト | www.yochisha.keio.ac.jp/index.html |
カテゴリー | 小学校 |
評価 | 3.2 6 件の口コミ |
Keio Yochisha Elementary School | |
近くの同様の会社 LearningTree International School Tokyo Tsukishima — 東京都中央区月島2丁目14−12 月島セントラルビル 聖心女子学院 — 東京都港区白金4丁目11−1 目黒区立駒場小学校 — 東京都目黒区駒場3丁目11−13 中央区立明正小学校 — 東京都中央区新川2丁目13−4 |
慶應義塾幼稚舎 件の口コミ
6 2〜3年生くらいの男子生徒3〜4人が電車の中で大騒ぎ。
周囲にいる人の外見をあざ笑うような会話をひそひそ。
裕福な家庭の子供が多いでしょうし、品性は家庭での教育で培われるものかと思いますが、通学電車内での態度は学校でも指導してもらいたいものです。とても不快でした。
争い事があまりなく、
平和な小学校でした。
今でもここで培った
友人関係にはお世話になっております。
高校まではここの塾生として過ごし、
大学からは海外に進学しました。
某ホテルのフランス料理のレストランで幼稚舎の生徒が走り回っていて、びっくりした。しかも、頭にナプキンをまいて、走っていた。おかあさま方はそれをみながら、笑って談笑していた。
どうやら、某キー局にお勤めの方や、某インスタントラーメンの会社の社長の息子らしく、またまたびっくりした。どんな教育をしているのかと思う。
散歩を兼ねた運動と買物のため、1時間ほど春を感じるため普段は通らない道を歩きました
慶応幼稚舎の桜がキレイだったので、思わず写真に収めました!
の門が気が付かない風景に出会えるも気分転換になりますね〜
福澤諭吉ここに在り
作詞 佐藤春夫
作曲 信時潔
歌詞1番
平等自由の世の中に
独立自尊の人が住む
世界の日本
つくろうと
若者たちに呼びかけて
福澤諭吉
ここに在り
歌詞2番
とことんやれと勇み立ち
錦のみ旗押し進め
幕府を伐つと
官軍は
長州薩摩土佐の兵
上野の山を
攻め囲む
歌詞3番
そら戦争がはじまるぞ
逃げよかくれよ危ないと
うろたえさわぐ
大江戸に
落ち着いた人ただひとり
福澤諭吉
ここに在り
歌詞4番
芝と上野は八キロだ
上野に戦あればとて
芝新銭座は
別世界
轟け爆声
玉は来ぬ
いつものとおり
授業する
歌詞5番
立ち騒ぐまい学生よ
戦する人多けれど
勉強するのは
我らだけ
この日我らがなまけては
洋学の道
あとを絶つ
歌詞6番
洋学の灯は消すまいぞ
これが消えれば国は闇
我らのつとめ
忘るなと
十八人を励まして
福澤諭吉ここに在り
浜松町1丁目の港区立エコプラザ前に「福沢・近藤両翁学塾跡」の碑があります。
実際に両者の学塾、慶応義塾と攻玉社があったのはこの碑から北へ通りを一つ隔てたところの現浜松町1-3~4とされます。
かつてこの地は「芝新銭座」と呼ばれていました。
その由来は1636年寛永13年にこの地に江戸における幕府による最初の銭貨鋳造所が設けられ寛永通宝が鋳造されたからと伝えられています。
芝の鋳造所は元文年間1736年~1741年ごろに姿を消したとされていますが、後世まで「新銭座」として地名が受け継がれ旧町名は「芝新銭座町」でした。
1858年安政5年福沢諭吉は築地に蘭学の塾を開きました。
1868年慶應4年芝新銭座の伊豆韮山代官鉄砲方の江川太郎左衛門の長屋に移転した。
その時の年号にちなんで慶應義塾と名づけられました。
1871年明治4年学生が激増したため現在地の三田の島原藩邸跡に移転し
た。
芝新銭座の跡地は海軍将校を養成する学校であった攻玉社を経営していた近藤真琴がゆずりうけました。
1925年大正14年攻玉社も品川区大崎へ移転しこの地には記念碑が建てられました。
戦災のためにその記念碑は失われてしまいました。
1965年昭和40年両校関係者有志によって現在の記念碑が再建されました。