お玉ヶ池跡
お玉ヶ池跡 件の口コミ
8 元々は桜ヶ池という名前だったそうですが、池沿いにある茶屋の娘の名前をとって於玉ヶ池(お玉が池)になったそう。
悲しい恋で池に身を投げたお玉さんの霊を慰めるためにお稲荷さんを建てたのだとか。
せっかくなので、お稲荷さんに手を合わせてゆきましょう。
お玉さんが実在したのかは今となってはわかりませんが、
世の殿方はそういう物語に出てくる繊細な女性に何となく恋心をいだいてしまいますよね。
かつて江戸の神田には、お玉ヶ池という池がありました。その規模は上野の不忍池よりも大きかったといわれております。「お玉が池跡」は小ぶりな社ですが、一角に少し水がためられていて、金魚が泳いでいました。ささやかながら、池のイメージでしょうか。
江戸期の古地図では景勝地として現在の不忍池程度の面積を有していたらしいでですが、江戸後期頃から徐々に、神田山(駿河台)を削って埋め立てて宅地化されて、弘化2年(1845年)の時点で池は存在していません。この界隈には儒者、漢学者などが多数住んでおり、江戸の学問の中心地でもありました。今はビルの狭間にお玉稲荷大明神と金魚が泳ぐ小さな池があります。
神田駅北口より徒歩10分程度
岩本町の方が近いです
昔は、桜が池との名前でしたが、池のほとりの茶屋娘のお玉さんが身を投げられたためにお玉が池と言うそうです。
今でも少し池が残っていて都会の隙間にひっそりとたたずんでおります。
お参りもできますよー
この名を聞いて思い出すのは、北辰一刀流の千葉周作かな。江戸の一等地に道場を構えたので門下生は多かったらしいけど、私のような阿呆には思い出すのは赤胴鈴之助だなぁ。物語上、千葉周作の弟子という設定でしたからね。
お玉が池という池があり
江戸の初めには不忍池よりも大きかったといわれますが、徐々に埋め立てられ姿を消したといいます
桜が池と呼ばれましたが、畔の茶店の娘に、
男二人が心を通わせ、悩んだお玉は池に身を投じ、亡骸は池の畔に葬られたとある。
人々が彼女の死を哀れに思い、それまで桜ヶ池と呼ばれていたこの池を於玉ヶ池と呼ぶようになり、またお玉稲荷を建立して彼女の霊を慰めたという
江戸時代初期。この辺りに (桜ヶ池) と呼ばれた不忍池より大きな池があった。
その後、桜ヶ池は茶屋のお玉の名前を取って (お玉ヶ池) となった。
しかし、江戸府内の人口増加に伴い、神田山を崩してお玉ヶ池を埋め立て、そこに人家を建てた。
江戸時代後期。この地に剣術家の千葉周作が玄武館と呼ばれる道場を建てた。
当時江戸では、力の斎藤、位の桃井、技の千葉と言われていた。
千葉道場の特長は、従来の武士だけに偏った剣術を防具や竹刀を使い、万人にも分かりやすく理論的に教えたので、町人も大勢詰めかけたりして繁栄した。
流儀名は北辰一刀流。
北辰とは北極星の事。
因みに、道場名の四神の一つの玄武をつけた。
四神とは、方位を司る霊獣の事。
北が玄武、東は青龍、南は朱雀、西は白虎。
幕末には、弟の千葉貞吉の道場を含めて多くの志士を輩出した。
坂本竜馬もその一人。
彼の考え方もこの道場の教え方が、かなり影響を与えたのかも知れない。
今は、ビルの間の殆ど日の当たらない細い路地に小さなお玉稲荷神社が当時の繁栄を伝えている。