板垣退助の墓
住所 | 東京都品川区北品川3丁目7−15 |
電話 | +81 3-3474-5575 |
時間 | 09:00-17:00 |
カテゴリー | 史跡 |
評価 | 3.7 7 件の口コミ |
Grave of Itagaki Taisuke | |
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板垣退助の墓 件の口コミ
7 戊辰戦争で土佐藩兵を率いて転戦し、征韓論で敗れて下野したあとは自由民権運動に身を投じた板垣退助の墓所です。
自由民権運動に力を尽くした板垣退助の墓は、品川神社社殿裏にあります。傍らには「板垣死すとも自由は死せず」の有名な文言を刻んだ碑があります。
現在、品川神社の境内に接して板垣退助の墓所がありますが墓所はもともと東海寺塔頭の高源院内にあった。関東大震災で高源院が移転したため墓地のみが残された。
板垣退助の墓は出生地の高知市にありますが、ここ北品川にも分骨した墓があります。妻や子供達の墓もあります。関東大震災前にはここに、寺があり、境内に墓があったそうですが、震災後に寺は移転しましたが、なぜか墓だけが、今の場所に残ったとの事です。近辺に案内板もなく、品川神社の境内の裏の方、狭い通路の先にあり、なかなか分かりにくいです。退助と妻の墓は立派です。自由民権運動と百円札の肖像画で有名ですが、名言「板垣死すとも自由は死せず」の大きな石碑 (佐藤栄作直筆) もあります。墓の周りは民家が密接していて、小高い丘のような場所にあるので、品川神社の境内からでないと、訪れる事が出来ません。
1874年(明治7年)1月17日、板垣退助ら8人が、国会の開設を要求する建白書を政府に提出しました。此れが自由民権運動の始まりと云われます。板垣は土佐(高知県)出身の士族であり、かつての政府首脳の一人である。板垣は、民権運動が西日本の士族たちを主とし担い手として始まったことを象徴する人物でした。
戊辰戦争後の高知藩で実権を握ったのは、大政奉還の立役者である後藤象二郎と、戊辰戦争の英雄である板垣退助の連合政権だった。この二人は、いずれも上士出身である。これに対して、国許の高知で実権を握ったのは、下士・郷士をふくむ凱旋した軍人たち。谷干城、片岡健吉らで、藩の軍務局を拠点としていた。東京市の板垣・後藤と高知の谷らは対立していた。高知藩において士族・率族の等級制の廃止に抵抗したのが、のちの自由民権運動の指導者になる板垣退助その人でした。
このころ、板垣は、藩内の人物を家格によって差別する人物であると認識されていた。板垣らの新政府軍と戦った江戸幕府の歩兵隊は、日雇いの肉体労働で生計を立てているように日用層、つまり都市下層民(「破落戸」(ごろつき))の軍隊だったのです。
近衛兵として勤務する薩摩や土佐の軍人たちは、戊辰戦争の、また廃藩置県クーデターの勝利者であるにもかかわらず、自分たちの存在意義の危機に直面していたのです。藩を失い、徴兵制によって、その存在意義も失われつつあった士族たちの不安とは、身分制社会の解体によって所属すべき「器」を失った士族たちの不安でした。
板垣らは「建自書」を提出した自分たちの行動を「反体制」の活動だとは考えていなかった。民選議院の設立というポスト身分制社会の新たな構想を実現するためには、その主体として、知識と意欲をもつ士族集団が生きのび、理想の実現の為には、権力の座につかなくてはならない。彼らは、そう考えたのです。
指導者としての板垣の権威は、戊辰戦争の功績によって支えられていた。その指導下にある立志社は、潜在的な軍隊であるからこそ、存在感をもっていた。西南戦争における西郷の敗北と、立志社の蜂起の未発は、政府から見た潜在的な軍隊としての立志社の存在感を失わせることになったのです。
自由党の指導部は、実力行使に否定的だった。しかし、板垣以下の自由党指導部は「武」の要素を全面的に否定するわけにはいかなかった。なぜなら、暴力に訴えてでも新しい秩序を自分たちの手で創出するというのは、自由党の存在意義そのものであり、自由党の思想の中核をなしていた。そして、実際に暴力で旧秩序を打ち倒した戊辰戦争の経験があり、その戦争の英雄だった板垣が党首として権威をもち続けたのです。
だから、自由党は暴力による新秩序の創設を全面的に否定する論理はもたなかった。だから、自由党の指導部は、急進化した党員を抑えることが出来なかったのです。オッペケペーの自由民権運動及び人財を改めて多面的に掘り下げるべきだと痛感しました。行き違い等々の切はご容赦下さいませ。本所亀沢町6代末孫
板垣退助のお墓に初めて訪れた方は、迷いながらの道すがらだったと思います。マップ上では品川神社の裏手に位置することから、マップにプロットされた位置関係を頼りに、境内をウロウロしつつ神社本殿と阿那稲荷の間の小道を進んでやっと辿り着けた次第です。他の方々のクチコミを拝見しますと、品川神社境内に順路表示が無い(分かり難い)ことの不親切さを感じた方が多いようですが、そこには複雑な経緯があるようで、見方を変えれば、品川神社のご厚意によって墓参することが可能になっている節もあるようです。
そもそも、江戸時代の品川神社地域までは、沢庵和尚(たくあんおしょう)開山による東海寺(現品川区北品川3丁目/旧塔頭の玄性院にあたる)の広大な所領地であって、その中(5万7千坪)には17院(宇)もの塔頭(たっちゅう)があり、品川神社もその一つの牛頭(ごず)天王社だったわけです。現に品川神社の御祭神は、天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと )、宇賀之売命(うがのめのみこと)の他に、素戔嗚尊(すさなおのみこと)も一柱になっているように、これは神仏習合(本地垂迹)の神として崇められていたことは、現在でも脈々と続けられている6月7日からの祭礼(牛頭天王祭)でも明らかです。
明治時代になって、太政官布告(神祇官事務局達)の神仏判然令(神仏分離令)によって東海寺領が新政府に接収されたことにより、また、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の潮流も相まって、段々と各院も衰退の途を辿った訳です。
板垣退助を葬った搭頭の一つであった高源院も、最終的には世田谷区烏山に移転を余儀なくされ、板垣退助の墓地だけを当地に残した経緯があります。ところが、高源院の跡地は学校(現品川学園/北品川第2保育園)となり、板垣退助の墓地への道がなくなってしまったのです。そのために、品川神社のご配慮により境内からの墓参が可能になっているのです。
板垣退助は、義務教育教科書に載り、百円券(札)に載ったほどの人物で、また、自由民主主義を綱領とする現自由民主党の初代総裁とも位置づけられています。現に板垣退助墓石の横には、第61代内閣総理大臣佐藤栄作直筆による「板垣死すとも自由は死せず」の、板垣退助の名言を石碑にしているのです。その割にと言ってはなんですが、余りにも寂しさを漂わせている墓地の姿に違和感を隠せません。郷土の誇りとする高知県人も、自由を唱える自民党員も、区史を明確にする品川区教育委員会も、民心の拠り所とする各宗教法人も、遺徳に触れようとする墓参者も、皆んなが協力すれば改善できると思うのですが・・・。
板垣退助の墓前にお立ちになることをお勧めいたします。何か足りないものを感じていただきたいです。