得仁堂(小石川後楽園)
住所 | 東京都文京区後楽1丁目6 |
電話 | +81 3-3811-3015 |
時間 | 09:00-17:00 |
サイト | www.tokyo-park.or.jp/park/format/index030.html |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 4.3 6 件の口コミ |
Tokujin-do Pavillion | |
最寄りの枝 八卦堂跡 — 東京都文京区後楽1丁目6−6 赤門(旧水戸藩江戸上屋敷中仕切門) — 東京都文京区後楽1丁目6 旧岩崎邸庭園 — 東京都台東区池之端1丁目3−45 自由の鐘 — 1-6 Hibiyakoen, Chiyoda City, Tokyo 100-0012 |
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得仁堂(小石川後楽園) 件の口コミ
6 【 2020/11/23訪問時のクチコミ 】
水戸光圀ゆかりの得仁堂 (Tokujin-do) と木像「伯夷 (はくい) ・叔齊 (しゅくせい) 」… 小石川後楽園の造営を完成させた水戸徳川家二代藩主 徳川光圀 (みつくに:1628-1700) は、得仁堂 (とくじんどう) を創設し、泰伯 (たいはく) ・伯夷 (はくい) ・叔齊 (しゅくせい) 像を安置しました。
光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示されています。三像のうち、伯夷・叔齊像は現存しています。
「伯夷・叔齊」とは、古代中国・殷 (いん) 代末期の孤竹国 (こちくこく:現在の河北省唐山市) の王子兄弟の名前で、伯夷が長男、叔齊は三男です。
父の亜微から弟の叔齊に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔齊に王位を継がせようとしました。しかし、叔齊は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がせようとしました。
そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れました。叔齊も位に就かずに兄を追って出国してしまいました。
国王不在で困った国人は次男の仲馮を王に立てました。
伯夷・叔齊 兄弟は善政を行っていると評判の文王 (ぶんおう) を慕い、周の国へ行きましたが、時の王は亡くなり、子の武王 (ぶおう) が継いでいました。
武王が父の葬儀も済まないうちに殷 (いん) の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道に背くと諫 (いさ) めましたが、聞き入れられませんでした。
そこで2人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山にこもり、山菜を食べて命をつないでいましたが、ついに餓死したと言われています。
光圀は6歳の時に兄 (松平頼重) を差し置いて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔齊」の物語 (史記「伯夷列伝」) を読み、非常に感銘を受けました。
光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂 (とくじんどう) を建立 (こんりゅう) し、伯夷 (はくい) ・叔齊 (しゅくせい) の木像を納め、参詣したと言われています。
といった内容がお堂の前の立看板に書かれてあります お堂が建立された経緯を知ることで見方も変わってきますので、こういった解説ボードがそれぞれの場所にあるのはとても良いです️
水戸黄門様が時代劇で描写されているような優しい方だったということを窺 (うかが) い知ることが出来ます️
水戸光圀ゆかりの得仁堂 (Tokujin-do) と木像「伯夷 (はくい) ・叔齊 (しゅくせい) 」… 小石川後楽園の造営を完成させた水戸徳川家二代藩主 徳川光圀 (みつくに:1628-1700) は、得仁堂 (とくじんどう) を創設し、泰伯 (たいはく) ・伯夷 (はくい) ・叔齊 (しゅくせい) 像を安置しました。
光圀が堂をつくり三像を祀ったことには、その徳を慕い、手本としていた光圀の強い思いが示されています。三像のうち、伯夷・叔齊像は現存しています。
「伯夷・叔齊」とは、古代中国・殷 (いん) 代末期の孤竹国 (こちくこく:現在の河北省唐山市) の王子兄弟の名前で、伯夷が長男、叔齊は三男です。
父の亜微から弟の叔齊に位を譲ることを伝えられた伯夷は、遺言に従って叔齊に王位を継がせようとしました。しかし、叔齊は兄を差し置いて位に就くことを良しとせず、あくまで兄に位を継がせようとしました。
そこで伯夷は国を捨てて他国に逃れました。叔齊も位に就かずに兄を追って出国してしまいました。
国王不在で困った国人は次男の仲馮を王に立てました。
伯夷・叔齊 兄弟は善政を行っていると評判の文王 (ぶんおう) を慕い、周の国へ行きましたが、時の王は亡くなり、子の武王 (ぶおう) が継いでいました。
武王が父の葬儀も済まないうちに殷 (いん) の君主を征伐しようとすることを知り、父子の道、君臣の道に背くと諫 (いさ) めましたが、聞き入れられませんでした。
そこで2人は、「周に仕えて俸禄を受けるのは恥」として山にこもり、山菜を食べて命をつないでいましたが、ついに餓死したと言われています。
光圀は6歳の時に兄 (松平頼重) を差し置いて世継ぎと定められ、苦しみ続けた自らの身の上と重ね、18歳で「伯夷・叔齊」の物語 (史記「伯夷列伝」) を読み、非常に感銘を受けました。
光圀は「仁を行い得た人たち」を祀る得仁堂 (とくじんどう) を建立 (こんりゅう) し、伯夷 (はくい) ・叔齊 (しゅくせい) の木像を納め、参詣したと言われています。
といった内容がお堂の前の立看板に書かれてあります️ お堂が建立された経緯を知ることで見方も変わってきますので、こういった解説ボードがそれぞれの場所にあるのはとても良いです️
水戸黄門様が時代劇で描写されているような優しい方だったということを窺 (うかが) い知ることが出来ます️
この建物は、光圀18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み感銘を受け、伯夷、叔斉の木像を安置した堂です。得仁堂の名前は孔子が伯夷・叔斉を評して「求仁得仁」と語ったことによります。
水戸黄門でお馴染み水戸光圀公が18歳の時、史記「伯夷列伝」を読み、感銘を受けて伯夷・叔斉の木造を安置した堂で小石川後楽園で最も古い建物です。
伯夷・叔斉は中国古代の殷の時代にあった小国の王子兄弟の名前で、二人は互いに王座を譲り合い、国を去ったと言われています。
二人は善政を行なっていると評判の文王を慕い、周へ行きましたが、文王はなくなり子の武王が即位。文王の葬儀も済まないうちに殷を征伐しようとしたため、山にこもってワラビで命を繋いでいましたが、ついに餓死してしまいました。
光圀公は6歳の時に兄を差し置き世継ぎと定められ、様々な葛藤のなか過ごしてきたため、伯夷・叔斉の物語が響いたのでしょう。
得仁堂の命名の由来は論語の「仁を求めて仁を得たり」です。
光圀公は伯夷・叔斉を人を求めて仁を得た人たちを祀るため、得仁堂を建立しました。