斎藤茂吉終焉の地
住所 | 東京都新宿区大京町22-2 |
電話 | +81 3-5273-3563 |
時間 | 00:00-24:00 |
カテゴリー | 史跡, 観光名所 |
評価 | 3 6 件の口コミ |
Saitō Mokichi's Deathplace | |
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斎藤茂吉終焉の地 件の口コミ
6 歌人・精神科医の斎藤茂吉が昭和25年 から亡くなるまでの約2年間を過ごした場所です。茂吉は、現在の山形県上山市の農家に生まれ、十四歳で上京後、浅草医院に間借りし、第一高等学校に学びました。明治38年に斎藤家の女婿となり東京帝国大学に入学、卒業後は、長崎勤務、ヨーロッパ留学を経て、養父が院長をつとめる青山脳病院に勤務、大正13年に同病院が全焼すると、養父に代わり院長となり、その再建に尽くしました。
歌人としては、大学入学前後より作歌をはじめ、間もなく伊藤左千夫に入門し「アララギ』の創刊に参加、その後「赤光」・「あらたま』・『つゆじも」など多数の歌集を発表しました。
この地は、長男の茂太 (精神科医・随筆家) が開業するための医院兼住居を新築したもので、妻輝子や次男宗吉 (小説家 北杜夫) ら、文学に縁の深い一家がともに過ごした場所でした。当時の家屋は昭和63年に解体されましたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されています。
今はビルの壁面に説明板があるだけです。
歌人、精神科医の斎藤茂吉(1882-1953)が1950年から亡くなるまでの約3年間を過ごした場所で、案内パネルが立っています。長男の茂太もここの医院で生活をしていますが、現在は集合ビルです。ビル内に医療クリニックがありますが、斎藤茂吉とは関係はないようです。
This is the place where Mokichi Saitoh (1882-1953), a poet and medical doctor, spent his final 3 years. His son Shigeta was also a doctor and lived here for some years. Now there is a building no relation to Saitoh. A panel built by Shinjuku-ku says that this is a historical site.
説明板があり、下のように書かれています。
この地は、歌人・精神科医の斎藤茂吉(1882~1953)が昭和二十五年(1950)から亡くなるまでの役二年間を過ごした場所である。
茂吉は、現在の山形県上山市の農家の三男として生まれ、十四歳で上京後、医師斎藤紀一が開く浅草医院に間借りし、第一高等学校に学んだ。
明治三十八年(1905)斎藤家の女婿(じょせい)となり東京帝国大学に入学、卒業後は、長崎勤務、ヨーロッパ留学を経て、養父が院長をつとめる青山脳病院に勤務、大正十三年(1924)に同病院が全焼すると、養父に代わり院長となり、その再建に尽力した。
歌人としては大学入学前後より作家をはじめ、間もなく伊藤左千夫に入門し「アララギ」の創刊に参加、その後「赤光(しゃっこう)」・「あらたま」・「つゆじも」など多数の歌集を発表した。
この地は、長男の茂太(精神科医・随筆家)が開業するための医院兼住居を新築したもので、妻輝子や次男宗吉(小説家 北杜夫)ら、文学に縁の深い一家が共に過ごした場所であった。茂吉はすでに最晩年であり、体調が優れなかったが、歌集「石泉(せきせん)」・「霜」を創刊し、文化勲章も受賞した。」当時の家屋は昭和六十三年(1988)に解体されたが、書斎は上山市の斎藤茂吉記念館内に復元展示されている。