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東京大空襲戦災犠牲者追悼碑

住所 東京都台東区浅草7丁目1−6
電話 +81 3-5246-1111
時間 00:00-24:00
サイト soumu.go.jp
カテゴリー 史跡, 観光名所
評価 4.5 11 件の口コミ
Great Tokyo Air Raid Memorial Monument
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坂下平和地蔵尊 — Tokyo, Bunkyo City, Sendagi, 3 Chome−43−1
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東京大空襲戦災犠牲者追悼碑 件の口コミ

11
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Hideki
13 十二月 2022 16:39

創作

数日前、Jアラートが鳴ってびっくりしたが、北朝鮮の弾道ミサイルだと、大騒ぎ。 「太平の眠りを覚ます弾道ミサイル、たった四発で夜も寝られず。」
私は1930年(昭和5年)生まれの92歳です。ここ浅草で生まれ、旧制七中、を卒業しました。東京大空襲の時は、東京ガスのガスタンク付近に避難して助かりました。
皆んな、ガスタンクが爆発したら危ないと言いましたが、反対方向の言問橋を渡っていたら、焼け死んでいたでしょう。 旧制七中の時には、勤労動員で、モッコを担ぎ道路工事に駆り出され、勉強した記憶がありません。今の、平和橋通り は七中の生徒が作ったのです。
終戦後の1946年、食糧難の時代、隅田川では 竪川の千本杭のあたりで、沢山の鰻がとれましたが、それは空襲で亡くなった土左衛門を食べたからからだろうか?

中松拓也
12 四月 2022 17:00

戦災により亡くなられた方々の碑
台東区浅草七丁目一番
隅田公園のこの一帯は、昭和二十年三月十日の東京大空襲等により亡くなられた数多くの方々を仮埋葬した場所である。
第二次世界大戦 (太平洋戦争) 中の空襲により被災した台東区民 (当時下谷区民、浅草区民) は多数に及んだ。
亡くなられた多くの方々の遺体は、区内の公園等に仮埋葬され、戦後だびに付され東京都慰霊堂 (墨田区) に納骨された。
戦後四十年、この不幸な出来事や忌わしい記憶も、年毎に薄れ、平和な繁栄のもとに忘れ去られよとしている。
いま、本区は、数少ない資料をたどり、区民からの貴重な情報に基づく戦災死者名簿を調製するとともに、この地に碑を建立した。
台東区
昭和六十一年三月

言問橋の縁石
ここに置かれているコンクリート塊は、一九九二年言問橋の欄干 (らんかん) を改修した際に、その基部の縁石を切り取ったものです。一九四五年三月十日、東京大空襲のとき、言問橋は猛火に見舞われ、大勢の人が犠牲となりました。
この縁石は、当時の痛ましい出来事の記念石として、ここに保存するものです。

Darian
07 十二月 2021 17:11

Stumbled upon this memorial while exploring the area today. A solemn reminder of what happened here during the war.

ネコムラ村長。
17 十月 2021 17:51

1945年3月10日の未明。B29アメリカ軍は、
あえて風の強い日を選び、1665トンに上る大量の焼夷弾を投下。

火災は北風や西風の強風もあって、目標地域をこえて、東や南に広がり、本所区、深川区、城東区の全域、浅草区、神田区、日本橋区の大部分、下谷区東部、荒川区南部、向島区南部、江戸川区の荒川放水路より西の部分など、下町の大部分を焼き尽くしました。

罹災家屋は約27万戸、罹災者は約100万人でした。

当時、浅草方面から墨田方面へ、墨田方面から浅草方面へと逃げ惑う人達がこの言問橋を行き交っていたそうです。しかし、たちまち炎は人から人へ、そして橋から川へ飛び降りる人、人、人。

多くの罪のない子供たちが、母親に守られる様に丸焦げになり死んでいきました。

橋の欄干には今も尚、人の脂で焦げ跡が生々しく残っています。

この惨劇は決して後世、繰り返してはいけません。

そして、風化させてはいけない歴史の黒幕なのです。

Road
23 九月 2021 12:45

1945年3月10日未明アメリカは日本の戦争継続を不可能にするため、木造家屋の建ち並ぶ人口密集地を目標にM69油脂焼夷弾 (ナパーム弾) を投下しました。東京湾から侵入した約300機のB29爆撃機はおよそ2時間半の間にE46集束焼夷弾(M69油脂焼夷弾を38本まとめたもの)として約32万本を目標に向けて投下しました。この夜間低高度からの無差別爆撃に北西からの強風も加わり、大火災が発生しました。この爆撃によって約100万人が被災し、11万人以上が犠牲になりました(台東区ー犠牲者14784人、墨田区ー犠牲者28660人、江東区ー犠牲者36521人)。この追悼碑のある言問橋南側に台東区側公園5千人以上、墨田区側公園1万人以上が仮埋葬されました。戦後荼毘に付され東京都慰霊堂に納骨されました。

1922年ハーグ法律家委員会が「空戦に関する規則案」 (ハーグ空戦規則案) を作成しています。
ーーーーーーーーーーーー以下抜粋ーーーーーーーーーーーー
***第22条[非戦闘員当に対する爆発の禁止]普通人民若を威嚇し、軍事的性質を有しない私有財産を破壊し若しくはき損し、又は非戦闘員を損傷することを目的とする空中爆発は禁止する***
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この規則を守って戦争している国はほとんどありません。何か理由をつけて非戦闘員を損傷する爆撃を正当化してきます。しかし、戦争そのものが本来正当化できるものではない以上、その正当化には何の意味もありません。二度と戦争状態にしないことが最も大切なことだと思いました。(2021年8月17日)

Tommy
09 六月 2021 1:04

東京大空襲戦災犠牲者追悼碑 (Tōkyō daikūshū sensai gisei-sha tsuitō-hi) [Memorial to the victims of the Great Tokyo Air Raid War]. On the night of 10 March 1945, civilians fleeing the incendiary bombs from the Asakusa and Mukojima sides of the Sumida River converged on the Kototoi Bridge to see refuge on the other side. The resulting congesting resulted in great loss of life at the site as bombs hit the bridge and the river ignited with many lost in the action that night. In all, more than 100,000 lives were lost that night.
Monument inscription: あゝ 東京大空襲 朋よやすらかに (Ā tōkyōdaikūshū Tomo yo ya sura kani) [Ah, the Tokyo Air Raids].
This area is also the site of 蟻の町 (Ari no machi) [Ants' Town], the settlement of rag pickers and recyclers associated with 尊者 北原怜子 エリザベト マリア Venerable Elizabeth Maria Satoko Kitahara, known as the 蟻の町のマリア [Maria of Ants Town] in the 1950's.

古室色彩
02 五月 2021 15:34

第二次世界大戦「東京大空襲」
昭和20年3月10日、空襲により非戦闘員で一般の方々が、一夜で10万人余り犠牲なり、犠牲になられた方々を慰霊する追悼碑。
戦後75年が経過して、隅田川を挟んで東京スカイツリー、あまりにも対象的で、考え深いものがあります。

(合掌)

星野浩伸
24 二月 2021 3:15

台東区は浅草7丁目、隅田川にかかる言問橋のたもとにございます。
東武鉄道の浅草駅から江戸通りを北にしばらく歩いたところ。
昭和20年3月10日の未明に東京の下町一帯を襲った東京大空襲では、一晩で10万人とも言われる犠牲者を出しました。
言問橋には対岸へ避難しようとした人々が殺到、橋の上で立ち往生したまま大勢が亡くなりました。
この出来事を語り継ぐ石碑の脇には当時の欄干の一部分も置かれています。
私たちにできるのは出来事を忘れないこと。ここに立ち寄るだけで十分意味があります。

小林隆志
08 一月 2021 13:06

東京大空襲は一夜に亡くなられた方が10万人と言われています。下町が狙われた夜間の空襲で発生した火災は戦陣風 (炎の渦) となり、避難している方を襲いました。さらには熱に耐えられず隅田川に飛びこんで亡くなられた方も多かったそうです。終戦後におこなわれた戦犯を裁く東京裁判では非戦闘員を攻撃し、殺害したことは裁かれませんでした。家屋を燃やすための焼夷弾を量産してばらまいておきながら、それはないだろうと思います。

uu7
03 一月 2021 21:39

墨田区側で毎年慰霊祭があるがここにも来ると両親や祖父母が体験した怖さが増す。
この横の隅田川に多くの人が飛び込み亡くなった。
火だるまになって飛び込んだ人を目の前で見るというのはどういう感じなのだろうか?
焼夷弾の油が上空でパッと火の刀の様になるというのはどう言う事なのだろうか?
想像を絶するとはまさにこういう話。

戦後75年。もう今伝えて行かないと戦争はしてはならないと感じられない人が増える。

今のこんな時代も様々な職種で景気の良い所、悪い所がある。
戦争の時も特需で良い所と悪い所があった。
結果はどうだったのだろう?歴史は多分嘘はつかない。

早川清美
28 三月 2020 8:04

言問橋、隅田公園。バイクで、東京の靖国神社へ行く時、休憩する場所です。東京大空襲の事は、海老名かよ子さんの本を読んで、かじる位ですが知っていました。この情報の写真を見て、改めて訪れて、手を合わせたい気持ちになりました。昔、元気だった頃に、旦那のおばあちゃんが、東京の空が真っ赤に見えたと、話していた覚えがあります。戦争の事を良く話してくれていた事が、懐かしく思い出します。また、機会を作って、手を合わせに行きたいです。

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